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夏の夜の夢#1

下北沢から八王子に向かい、神奈川県の相模湖から山梨へ続くワイディングロードを快調に飛ばした。東京オリンピックで自転車レースに採用されたそのコースは、コーナー出口に次々と絶景が現れ、ほとんど叫びながら疾ってきた。抜けるような空に誘われ思わず家を飛び出したが、正解だった。
東京のうだる暑さと澱みを逃れ、こころまで染まってしまいそうな鮮やかな緑の木々の中を、光と風になって抜けていく。


目的地の河口湖は、もう目と鼻の先だった。しかし、故郷イタリアの誇る真紅のバイクは突然、手前の山中湖でその鼓動を止めてしまった。どうしたって云うんだ。何をしても反応がない。失意のうちにサービスを依頼してバイクは引き取ってもらった。仕方がない。交通機関で帰ろう。

ところが、ガソリンスタンドの店員に最寄りのバス停を尋ねると、信じられないことに5キロ近くも歩くという。この暑さではとても行ける気がしない。既に日が暮れ始めていた。高揚し興奮していたこころは、途端に困惑と恐怖へと落ちていった。途方にくれ、とりあえず湖畔へ向かうと、一面に広がる美しい湖の向こうに皮肉なほど勇壮な富士山が現れた。

宿泊施設に数件あたったものの、英語が通じないせいか突然の外国人を受け入れてくれるところはなかった。


湖畔を走る遊歩道を当てもなく歩いていくと、提灯の明かりが見える。あれはきっとお店だ。ボスと一度、ああいう提灯という大きな看板がぶら下がった和食の店に案内されたことがある。提灯になんと書いてあるかは解らなかったが、「GUEST HOUSE」と別に英語表記があった。開いたままの玄関から中へ声をかけたが、応答がない。なんだろう、ここは。宿泊施設ではないのかもしれない。仕方なく遊歩道を更に進んでみたものの、その先は桟橋やマリーナ施設があるだけだった。

泣きたくなった。仕事のプロジェクトで日本へ来てから2年。バイクが壊れたのも初めてだが、この便利な日本で帰ることも泊まることもままならないのは初めてだ。
東京にいる友人に電話してみるが、つながらない。思い余って故郷ミラノの母へ電話した。母は元気そうだったが、もちろん何の解決にもならなかった。


スマホを頼りに来た道を戻ると、先程の提灯に照らされ、ひとりの少女が立っている。あわてて声をかけた。
「Can you speak English?」
少女は、驚いた様子で、それでも「Yes. a little」と応えてくれた。
「ここは宿ですか、それともレストランですか。」
「宿ですよ。食事は出ないけど。」
「泊まらせてくれないかな。バイクが壊れてしまって帰れないんだ。」
「私、宿の者じゃないんで、わかりません。でも、お父さんが知っていると思います。」
そう云って彼女は父を呼んだ。


つづく。

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