見出し画像

友だち100人できるかな

混乱の世であるが、今年もいよいよ卒業や進級進学の時節である。見沼の桜は明日辺り咲くのではないだろうか。身近に桜並木のある幸せよ。この季節は出会いと別れが幾重にも折り重なり、一年の間でも印象深い思い出が多い。
小学校へ入学すると友だちがたくさんできるのだと聞いたのは、保育園を卒園する間際の出来事だった。みんなで歌を歌ったのがきっかけだった。
♪一年生になったぁら、いっちねんせいになったぁら、とっもだっちひゃっくにんでっきるかな♪




40数年前当たり前のように歌われていた歌だが、友だち100人のハードルは高いなあとドン引きしたのを覚えている。100人いないとカッコ悪いのかなあ、そんなにいないとダメなのかなあ、と不安になった。そして、友だちがたくさんいないと人格的に問題があるんじゃないかと見られるんだな、と小学校生活のなかでなんとなく認識した。




しかし、内気で頑固なところのあるぼくには、100人の友だちはできなかった。
小学4年生のときには、やっと友だちになれたと思っていたクラスメイトから「お前なんか別に友だちじゃねえよ。」とキツイ言葉を吐かれたこともある。何をしたのか覚えていないが、気に入らない事をしたにちがいない。何せ未熟な年代だ。ぼくもクラスメイトも当然いろいろな衝突を経験した。くっついたり離れたりしながら成長したのだ。




その後思春期に突入し、部活を経験し、サークルやバイトなどを経験し就職したが、100人の友人がいた時期は一度もない。そして、今もって友人と云える人は数えるほどだ。だが、友だちが100人という圧力はずっとあった。正確には、友人がたくさんいる人ほど素敵、という圧力だ。友人がたくさんいれば、きっとその人は人格的にも素晴らしくて成功している部類の人なのだろう、という風に考える人は多い。そして、その無自覚の圧力に苦しめられている人も、また多い。




携帯大手のコマーシャルでは、仮想空間でつながっている事の良さをアピールしている。そして皆「いいね!」の数を気にして暮らしている。数千人数万人とつながっていることが善とされる。しかし実際には、仮想空間が創り出しているのは孤独なのではないか。人々は自覚なく携帯電話に傾倒し自ら孤独を選ぶ。目の前に恋人がいるのに友人がいるのに家族がいるのにリアルで会っているのに、見ているのは携帯の画面なのだ。




ぼくに友だちは100人いらない。そもそも何かと無精なぼくには、たぶんできない。
でもね。
たまにしか会わなくても、すぐに一緒に過ごしていたかのような感覚で話のできる、情けのない泣き言を云いあえる、つまらないことで喧嘩のできる、アホな盛り上がりで肩を抱き合える、なんでもないことで共に笑って泣ける、くだらない時間を一緒に過ごせる君がいれば、ぼくはとてもとても満足なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?