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藤堂高虎と古田織部と破袋

破袋は破袋ではない!?

藤堂家には日本陶磁器史上最も重要な器の一つである「破袋(やぶれぶくろ)」が伝わっていた。正確には「大ひびきれ」が正しい銘だ。が、誤解により「破袋」の名前の方で現在は定着している。その為に二つの「破袋」が存在する。一つは五島美術館に収蔵されている「破袋」、そしてもう一つが、個人蔵の「破袋」であり、これが本来の破袋である。何故、この様なややこしい事になったかと言えば、重要文化財指定の際に担当者が間違えてしまったそうな(んなアホな)。この項では藤堂家に伝わった「破袋」について語る。

「破袋」は江戸初期に作陶された伊賀焼の水差しで古田織部好みの最高傑作である。何故、最高傑作と言い切れるかと言えば関東大震災の際に隅田河畔の藤堂家の蔵で焼けてしまったが、箱の中に織部の書状が残っていた。曰く「巳上内々御約束之伊賀焼ノ水指令進入候今後是程のもなく候間如此候 大ひゝきれ一種侯かかんにん可成と存候 猶様子御使に申渡供 恐惶謹言」と書かれており、意訳をすれば「約束していた伊賀焼の水指を進呈します。これほどのものは今後無いでしょう。焼き物には大きなひびがあるますがこれも趣ありと思っていただければ」と書かれていた。但し、何年に書かれたものかは定かではない。

藤堂高虎と古田織部の関係

この書状は豊臣方の大野治房宛に送ったものだ。が、もし実際に送られていたとすると「破袋」は大阪城内に在った筈だ。大阪城が焼けた際に書状も含めて奇跡的に無傷で残ったと考えるべきか。それとも、大野治房には実際に送らずに織部は最後まで手元に残しておいたのではないか?後者の可能性もある。そう考えた方が藤堂家に伝わった理由としても納得が行く。何故か?高虎が古田織部自刃の後処理を行った為である。

京都市立堀川高校の校門脇に藤堂高虎屋敷跡の石碑が立っている。かつて、ここは織部の屋敷であった。屋敷内には複層の楼閣が設けられていたと伝わる。幸いな事に屋敷の一部は現存している。織部屋敷の高塀と表門は京都の藪ノ内家燕庵に移築されており、武家の雰囲気が漂う。また、屋敷の一部は伊賀上野城内に移築されていたらしいが、残念ながら遺構は残っていない。肝心の「破袋」は織部屋敷を接収した際に他の道具と共に藤堂家に渡ったものではないかと著者は思う。

藤堂高虎は織部の屋敷のみならず、織部の領地も接収した。大阪城の石垣に用いた巨石は京都の南、奈良の県境に近い木津川沿いの加茂町より藤堂高虎が運んだと伝わっている。加茂町は藤堂家の領地になる前は織部の領地でもあった。加茂町には今も藤堂高虎の供養塔が残っている。

京都に臨済宗円通山興聖寺という寺がある。通称「おりべ寺」と呼ばれており、織部が余生を送るつもりで、慶長8年(1603年)に虚応円耳和尚を通じ開山した寺だ。寺内には織部一族の墓もある。興聖寺門前、大応寺の境内には古田織部が勧請したと伝える織部稲荷神社もある。興聖寺は織部自刃後、高虎が大檀那となった。この寺には高虎寄進の朝鮮達磨像が伝わっている。機会を頂き拝見が叶った。達磨像は木彫で彩色されており、曰く中国由来と言う。案内をしてくれた方曰く、高虎と織部は親友だったのではないか、との説を伺う。この達磨が如何にして高虎の手に渡ったかは定かではないが朝鮮出兵の際に入手したものであろう。高虎は朝鮮より大量の石像を持ち帰った。それは朝鮮出兵で兵や荷を多く失い、その分の重量を補うべく石像を中心に持って帰ったと聞く。陶磁器研究の第一人者、林屋晴三曰く、織部も自らの好みの茶碗を作らせに朝鮮に何度か渡ったと言う。いわゆる、御所丸茶碗と呼ばれるもので、織部好みの器のプロトタイプとなったのではないか。とすると、ここにも何か史書には残っていない高虎と織部の縁があったかも知れない。更に興聖寺の末寺、浄明院が津にある。このお寺も藤堂家と縁が深い。本筋とはずれるが興聖寺は曾我蕭白の墓がある。蕭白は津を中心に活躍をしており、藤堂家がパトロンとなっていたようである。脱線するといけないので、曽我蕭白と藤堂家に関しては別項で書く事とする。

更に仙石秀久の娘の一人が藤堂高清(高虎の弟であり、現在まで続く藤堂家の祖先)、もう一人の娘が古田重広(織部の嫡男)に嫁いでいる。また、高虎が拠点とした津藩に隣接する松阪藩は織部(古田重然)の親戚である古田重勝が拠点としており、ここからも交流の可能性が推察出来る。

この判明している四つの事例を見るだけでも、高虎と織部の只ならぬ関係が見て取れる。また、高虎の養女と小堀遠州は婚姻関係にあり、高虎と遠州は義理の親子だ。そして、遠州は織部の一の弟子であった。「宗甫公お尋ね書き」によると1612年頃より遠州は大阪方との縁が深い織部と距離を置くようになったそうだ。これは当時、徳川方の中心にいた義父の藤堂高虎からの指示があり、大阪と距離を置くように伝えた為であろう。実際に堀川屋敷の跡から大量に織部好みの茶碗も発掘されている。桐紋の入った大型の青織部角皿、美濃、唐津、備前、信楽焼が発掘されている。これは高虎が廃棄を指示したものなのであろうか?小掘遠州も織部自刃後、織部好みの器を使わなくてなったそうだ。が、遠州流の宗家に確認をしたところ、織部自刃後もプライベートでは織部の煙管などを使用していたそうだ。

古田織部の密談、藤堂高虎の諜報、そしてイノケンティウス三世

 話は飛ぶが中世欧州、イノケンティウス三世がローマ法皇であった頃は同時にローマ・カトリックの権力絶頂期であった。彼の権力には源泉があった。それは欧州全土に広がる告白室から寄せられる地方権力者の弱みと言う情報である。彼は告白された内容を知る事で地方権力者を意のままに動かせたとも言われる。

 茶室も似た性格がある。自論だが、いわゆる利休の茶室は宣教師の告白室に起源の一つがあると著者は考える。独特の暗さ、客と亭主の異なる動線、そしてそこで交わされる密談・・・信長は悩んだ。部下に褒賞として与えられる土地が限られていたからだ。信長は代わりに茶道具を報酬として部下に与え、部下は喜んだ。何故か?茶道具をもつ事、特に良いものをもつ事は、それ自体の価値もさることながら、同時により位の高い人間と茶室にて密談が出来る権利を得られる事であったからだ。そして、日本の戦の殆ど全てが密談、即ち事前交渉で決まる。関ヶ原の合戦の例を考えれば分かる。織部はその高度な情報の只中にいた。織部の師の利休も同様だ。一方、藤堂高虎の支配する伊賀には忍びがいた。織部の密談を通じた情報と高虎の忍びを通じた諜報。ここにも繋がりがあったとしても不思議ではない。高虎が伊賀に入った1608年から遠州が織部と距離を置き始める1612年までは、織部と高虎の間の蜜月期であったのかも知れない。

伊賀焼として有名な「破れ袋」はいつ焼かれたのか?

伊賀焼の歴史は古く奈良時代から伊賀北部の丸柱で焼かれて来た。「破袋」が焼かれた時期は織部が活躍をしていた時期だ。この時期に焼かれた伊賀焼の特徴としては・・・
粘土は伊賀焼中心地の丸柱北部にある白土山から採掘された。300万年〜400万年前に堆積した古琵琶湖層といわれる地層のもので蛙目粘土と木節粘土と言われている。蛙目とは花崗岩が風化して生じた粘土の中に石英粒があり,それがカエルの目に似ているのでその名が付いた。実際に筆者も作陶する際に蛙目粘土で作陶した事が何度かある。ざらみのある土で、高温で貝やココナッツなどと共に焼くと緋色が現れる。釉薬は窯の中で灰が付着してガラス化した自然釉。水差し、花入れが多く、共に耳付きである。また、ヘラを用いた装飾が施されている。因みに今、使われている伊賀焼の粘土は三重県と京都府の境の島ケ原で取れたもので、桃山・江戸初期の土とは別だ。

さて、焼かれた時期に関してだが織部は、伊賀の藩主であり織部の弟子であった筒井定次と、後に伊賀の藩主となった藤堂高虎の両者と関係があり、継続して織部好みの茶器を作らせていた。筒井が伊賀を治めていた頃(1585-1608年)の初期に織部に茶陶を作らせたとの説がある。確かに、この時期から伊賀では花生や水差が作られ始めた。また、1608年から1644年の間に作られた器は藤堂伊賀と呼ばれる(1624-1644年の間は遠州伊賀とも言う)。時期としては遠州が織部と距離を置く1612年以前に焼かれた可能性は高い。最高傑作と自身で言う程の器だから、晩年に作陶させた器の可能性は高い。藤堂高虎との只ならぬ関係から想像するに、1608年に藤堂高虎が伊賀に入り、1612年に遠州が織部と距離を置き始める四年間に作られた可能性はある。書状は器の完成とは別時期に書いたものであろうか?
「破袋」は大阪方との緊張が高まる中で、織部が何らかの意図で罅の入った水差しを送ろうとした可能性も考えられる。妄想をすると、徳川と豊臣の和睦を願う織部が自身で最高傑作と言った器を送る事で大阪方に「徳川と和睦をしないと大阪は劫火でヒビが入る程の事になるぞ」と脅しを込めて送ったとも考えられる。

伊賀焼として有名な「破れ袋」はどこで焼かれたのか?

漫画「へうげもの」の描写では織部の最晩年(1615年)に京都の粟田口に伊賀の陶工を藤堂藩より連れて来て、穴窯で「破袋」を焼かせたと描写されている。伊賀でなく粟田口で焼いた理由としては、この時期の伊賀焼は登り窯(温度は穴窯より低く、コントロールされた焼き上がり)を用いており、穴窯(高温でコントロールが難しい)による織部の好む歪みと緑釉のある伊賀焼が作り難い状況にあった、また表立って高虎の領地で作陶の指示が出来なかったとの想定からだろう。実際にいつ、どこで焼かれたのかは結論としては定かではない。だが、1612年以前に焼かれたものであれば、織部も自由に伊賀で焼物の指示が出来た可能性は大いにあるし、織部好みの歪みが出せる穴窯も伊賀で使われいたであろう。

粟田口焼と伊賀焼は関係がある。「しがらき焼はぜ出申様は、あわた口焼出申様は、黒谷土すいひ給り、すな入申候へば、如比はぜ出申す由」と言う資料がある、ようは粟田口で信楽焼の模倣を江戸初期に作っていたと言う資料だ。ここで伊賀焼と信楽焼の関係を説明する。伊賀焼は一旦廃れた。それは桃山・江戸初期にかけて伊賀焼の特徴でもある丸柱(伊賀焼の中心地)北部にある白土山から採掘出来る原料の白い陶土が1669年に「御留山の制」が藤堂藩により発布され禁止された為だ。禁止の理由としては、その当時の日本においては白い陶土が大変貴重であった為である。その後、伊賀の陶工は信楽へと移動した。故に伊賀焼と信楽焼には共通点が多い。即ち、伊賀焼の陶工の影響を受けた信楽焼が粟田口で模されたと言うのだ。もしくは「へうげもの」の解釈だと、伊賀焼の陶工が粟田口で織部の指導で作陶した伝統が残っていた、と言う言い方も可能かも知れない。
復興伊賀と呼ばれる伊賀焼がある。18世紀中頃に一度廃れた伊賀焼を瀬戸と粟田口の陶工の助力で興した。だが、復興伊賀は古伊賀(筒井・藤堂伊賀)とは趣は随分と異なる。兎に角、粟田口焼と伊賀焼には関係があり、「へうげもの」の「破袋」は京都の粟田口で焼かれたという説もそれなりの説得力を持つ。

「破れ袋」は実際に破れていたのか?

 「破袋」の一番の見所は文字通り、器の正面に大きく入った亀裂である。この亀裂は今では漆で直してあり、黒い。だが、その直しは藤堂家の手を離れ、高梨仁三郎を経て、五島美術館に渡った後の事みたいだ(高梨は東京コカ・コーラボトリングを設立する資金集めの為に「破袋」を売ったという)。その証拠に「破袋」を戦前に写した作品が伝わっている。外見は大きく異なるが、川喜田半泥子による「欲袋」だ。この水差しにも大きな亀裂があり、金の青海波模様で直されている。半泥子は昭和の辰年に「破袋」を観たと伝わる。辰年なので、昭和三年だと半泥子は作陶を学んだばかりだから、昭和十五年頃であろう(藤堂家の当主は昭和十八年、昭和二十一年と立て続けになくなっており、戦後は「破袋」は何らかのルートで売りに出された)。その当時、「破袋」の亀裂はを金で直してあった。

漫画「へうげもの」では、もう一つの「破れ袋」は破れたままで使われて水が漏れる景色が面白いと描写されている。水差しなのに、水を留める機能を果たしていない。この様な矛盾を含んだ作品は芸術を考える上で重要な要素である。時代を経て、改変が加わってはいるが、この器の持つ異様な気迫は未だに健在である。

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