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淡々と走ることが習慣化されていく日が来るなんて

もう何年も前のことになるのだけど、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」という冗長なタイトルのエッセイを読んだ。

彼はジャズバーを閉めて専業作家になるにあたり、ランニングを始めたらしく以来四半世紀以上、黙々と走っているらしい。フルマラソンだって出るし、旅先でもランニングシューズを欠かさないらしい。このエッセイではボストンやアテネなど世界中でせっせと走りながらいろんなことを書いてる(と記憶している)。

ランニングを人生のいろんなメタファーとして。

走るという行為が、いくつかの「僕がこの人生においてやらなくてはならないものごと」の内容を、具体的に簡潔に表象しているような気がしたからです。
「今日はけっこう身体がきついな。あまり走りたくないな」と思うときでも、「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」と自分に言い聞かせて、ほとんど理屈抜きで走りました。
その文句は今でも、僕にとってひとつのマントラみたいになっています。「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」というのが。
走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇を見つけては、せっせとくまなく磨き続けること。

彼は、ぼくは他の作家の生活を知らないのだけど、作家にしては珍しく、規則正しい生活を送っている。長編小説を書いている時は毎日朝4時ごろに起きて即、パソコンの前に座って原稿を書き始め、4~5時間、ひたすらに執筆。 この原稿の量は、かならず十枚程度と決めていて、短くても長くてもいけないらしい。 筆が進まなくても書ききり、逆に多く書けそうでもピタッとやめるのだそうだ。

そして、毎日1時間平均10kmの距離を走る生活を30年以上続けている。

彼のフルマラソンのパーソナルベストもすごくてぼくの記憶が正しければ3時間半くらいだったと記憶している。これ、1㎞あたり5分で走らないといけない。それを42km分。めちゃくちゃ速い。

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その記憶が頭の片隅にあったのかどうかはわからないけれど、今年の7月からちょくちょく走るようになった。当初の目的は減量。そして外出の理由づくり。ぼくは何か目的がないと外に出ない。出る理由がわからない。近所をぶらぶらするは外出目的にはなり得ない。

そんなわけで例の感染症で帰国して実家で隔離で引きこもって、しっかり太った。びっくりするくらいに。

簡単に体重の変遷を記しておくと(身長は175㎝)
68kg(高校、野球部)
65kg(大学、ただの大学生)
77kg(社会人、ジム通いプロテイン接種数年、2018年)
88㎏(コロナ帰国数か月後、2020年)
→NEW! 90kg(2020年12月)

走り始めた時、ほんとにしんどくて1kmも走ることができなかった。

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これが1発目のときの記録なんだけど、このとき1㎞走るごとに5分くらい休憩してたように思う。ただ苦しかった。そして悲しかった。たっぷり休憩して走っても7分/kmなのか、こんなに衰えたかと。

それからだいたい2日に1回くらいのペースで走るようになり、徐々に徐々にスピードも上がり、ほんとに少しずつだけど距離も伸びるようになった。

ほんとに、ただ自分が決めた時間が来れば淡々と走りにでている。

その後、忙しくて1カ月くらい走らなかった月もあるけれど、11月くらいからようやく2日に1回のランニングが日常のルーティーンの一部になって、休憩なしで走れる距離も10kmになった。

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けど、まだ毎回10km走れるようになっているわけではない。今でだいたい月60~75㎞。たぶん今月は100kmは走ることになると思う。

平日はまだ10㎞走れたことがない。それでも、たぶん人生で一番長い距離走ってる。高校のマラソン大会だって6㎞とかそんなものだったような気がするし。

だいたい、4㎞地点くらいで1回目の心折れそうになる瞬間がやってくる。しんどい、もう今日はいいじゃないか、足痛いし、筋肉痛取れてないし、重いし、この感じだったら10km走れないよ…明後日10km+αの距離走ってそれでいいじゃないか、今日は休もう…そういう誘惑に平日は勝てない。

ぼくはいつも夜に走っているんだけど、たぶん、平日は仕事なり勉強で意志力が消耗してしまってるからだと思う。

他の人の走ってる人の心境や距離あたりの疲労度は知らないけれど、ぼくは上記の通り体重が90kgあるから、重いから身体の負担が結構大きい。

(これは運動する以上に食べてる、単純に消費カロリーより接種カロリーが多いわけではなく、しっかりプロテイン接種してるから、筋力が増えてるからだと思っている。実際、身体絞れてきてると言われるし…。)

とにかく、まだ10km走ろうとすると、4㎞、6㎞、7㎞地点くらいで心折れそうになる。それを、歩きそうになるのを、足が止まりそうになるのを、ぎりぎり乗り越えてる。

今月は1回あたり少なくとも7kmは走っている。

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こんな日が来るなんて思っても見なかった。

正月の箱根駅伝とか観るのは好きだけれど、自分が1時間近く走るなんて想像もしたことなかった。

今、なんだったら近い将来フルマラソン走りたいな、サブスリー(3時間を切るタイム)目指したいなと思っている。最近ランニングコミュニティに入って週1回はいっしょに走ってる。そのメンバーから今月末のハーフマラソンに誘われていて、悪くないなと思い始めている。

20km走ったことないし、走ることができる目途も立ってないのに。

最近、よく思うのは、村上春樹の本ではないけれど、ランニングがぼくの生活のリズムを作ってる面があるなと。

いま、たぶん今年いっぱいは少なくともリモートワークというか個人事業主なんだけど、週ごとや月次の報告でよかったりするから、9時が始業だから7時半には起きて、朝ごはん食べて、8時10分の電車乗って…みたいな規則的な生活を送る必要がない。

だらけようと思えばいくらでもだらけられるし、中長期的には良くないんだけど嫌な仕事や勉強からも逃げやすくなってる。誰にも咎められないし。

まさに、

「今日はけっこう身体がきついな。あまり走りたくないな」と思うときでも、「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」と自分に言い聞かせて、ほとんど理屈抜きで走りました。

と同じで、別にやらなくたって誰に怒られるわけじゃないけれど、ここは頑張らないといけないところだと自分に言い聞かせる必要のある場面がけっこうな頻度である。

走ることっていう身体性と嫌なことに向き合うとか退屈な勉強をする精神性ってまたちょっと必要とされる意志力が異なる気がしないでもないけれど、それでも、ぼくのだらけきった生活にランニングというルーティーンはひとつの軸としてあって、たぶん、こうしてステイホームで時間はあるのに思うほど効率的に時間を使えていない日々の中で、何か重要な意味を持ち始めているような気がしないでもない。

だって「ランナーになってくれませんか」と誰かに頼まれて、道路を走り始めたわけではないのだ。誰かに「小説家になってください」と頼まれて、小説を書き始めたわけではないのと同じように。ある日突然、僕は好きで小説を書き始めた。そしてある日突然、好きで道路を走り始めた。何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。たとえ人に止められても、悪し様に非難されても、自分のやり方を変更することはなかった。そんな人間が、いったい誰に向かって何を要求することができるだろう?
 僕は空を見上げる。そこには親切心の片りんのようなものが見えるだろうか?いや、見えない。太平洋の上にぽっかりと浮かんだ、無頓着な夏雲が見えるだけだ。それは僕に何も告げてはくれない。雲はいつも無口だ。僕は空を見上げたりするべきではないのだろう。視線を向けなければならないのは、おそらく自らの内側なのだ。

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