【2回目観る前に読む考察】『君たちはどう生きるか』を私たちはどう観るか【超スッキリ】
なんや説教臭そうなタイトルがついとるし、事前情報ゼロやったから、観るまでは不安しかなかった『君たちはどう生きるか』。蓋を開けてみたら、宮崎駿の集大成の名に恥じない、大傑作の冒険活劇だった。なんで公開直後に行かなかったのか、後悔しかあらへん。
けど、話がよく分からへんゆう評価が多いやんか。ほんともったいない。ストーリー分かると、おもろさ10倍増や。
そこで、映画『怒り』、『チェンソーマン』『鬼滅の刃』『やまなし』とかで超ド級の考察をかましてきた「たったひとつの真実見抜く、見た目は中年童貞、気分は探偵、その名は迷探偵トドナン!」でお馴染みのワイ、トドナン君が、ネタバレ全開で、『君たちはどう生きるか』を徹底的に考察していくでーーーー!!
2周目の前に是非読んで行ってやー。
あ、ガチのネタバレやから、未見の人は読んだらあかん。
ちなみに、この記事は、おおむね時系列に従いつつ、主に「上の世界」に関する考察をまとめた第1部と、「下の世界」に関する考察をまとめた第2部、そして、小説「君たちはどう生きるか」との関係を明らかにして物語の核心部分を考察する第3部の3部構成、計16,663文字になっている。また、記事本文は「だ、である」調になっていることもお断りしておく。深い理由はなにもない。
第3部(2758文字)は、有料設定にさせていただいていたが、現在は無料に戻している。
なお、本記事で採用されている画像は、自作の1点を除きすべてジブリ公式で使用が認められているものだ。この点もご安心いただきたい。
ほな、諸々の注意事項も伝え終わったところで、さっそくはじめるでー!!!
第1部:「上の世界」をどう見るか
まずは、上の世界からはじめよう。基本的な人物像や設定を詳しく考察していく。
小説「君たちはどう生きるか」
劇中で、亡き母から時を越えて贈られた小説「君たちはどう生きるか」は、実在している。
この小説は、主人公コペル君が叔父に導かれる成長物語であり、根幹の部分で本作と非常に強く結びついている。本作のタイトルは、やはり『君たちはどう生きるか』が相応しい。
「コペル君」というのは、主人公・潤一に叔父がつけたあだ名だ。潤一が「人は自分を中心に世の中を見がちだが、実際には人々が集まって世の中を作っているのだ」と気づいたとき、叔父が、
「地動説(地球が宇宙の中心ではなく、地球は太陽の周りをまわっている)に気づいたコペルニクスのようだ」
と言ったことが由来になっている。そして、これは本作の重要な要素になっている。
眞人とコペル君には、それぞれ叔父、大叔父に導かれる以外にも、いくつか共通点がある。年齢もそうだし、生きる時代も近いものがある。ともに裕福だ(おそらく眞人の方がかなり裕福そうだが)。また、コペル君は父をなくしており、眞人は母をなくしている。
さて、小説『君たちはどう生きるか』を読む眞人が号泣していたのは、挿絵から第8章だと分かる。
この8章のエピソードは、潤一が、自分が友を裏切ったことに苦しみ、逃げ回り、言い訳をするものの、最終的に自分に向き合い、友に許しを請い、友情を回復するというものだ。
以下の考察を読んでいただければ、この号泣の意味も、また本作との関係も自ずと分かってくることだろう。この部分については、改めて第3部で私の考察を話したい。
歴史年表
作中で明言されている年号はなく、多分に曖昧なところも残るが、一旦、物語の全体像をつかむために年表を置いておく。個々の年号は仮置き程度だが、ある程度の時系列は捉えられるだろう。なお、当時の平均初婚年齢は男性26歳、女性23歳とのことであるから、ヒサコ・夏子はともに23歳結婚、24歳出産という大雑把な仮定を置いた。
1830年 大叔父(ヒサコの母の祖父母の兄弟)誕生
1854年 ペリー来航
1868年 戊辰戦争、大政奉還、
1880年 石落下 ※御一新=明治維新の頃
1885年 キリコ誕生?
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1906年 ヒサコ誕生
1910年 大叔父(80歳前後)が石を発見、神隠し
1914年 第一次世界大戦勃発
1921年 ヒサコの母(39)・他界?、ヒサコ(15)・キリコ(36)神隠し、夏子誕生
1922年 ヒサコ・神隠しから笑顔で帰還
1930年 眞人誕生、ヒサコ(24)
1937年 「君たちはどう生きるか」出版
1941年 太平洋戦争開戦
1944年 (開戦から3年)ヒサコ(38)他界、父勝一・夏子(23)と再婚
1945年 (開戦から4年)眞人(15)引越、眞人失踪~帰還、夏子(24)出産、8月終戦
1947年 (終戦から2年)眞人(17)東京に引越
このように整理すると、早速、いくつか興味深い事実が浮かび上がる。
まず、夏子はヒサコが他界した直後に、勝一と結婚していること。これは、当時さほど珍しくないことのようだが、思春期の眞人にとっては相当、堪える出来事だっただろう。
ふたつめは、ヒサコと夏子は、わりと歳が離れていること。夏子は、当時としては高齢出産で生まれた子といえるだろう。
みっつめは、夏子の誕生と、ヒサコの母の他界、そしてヒサコの失踪がほぼ同時期であること。
もしかすると夏子の出産が、ヒサコ母の他界の原因かもしれない。そして、それがヒサコの神隠しに繋がった可能性がある。
いずれにせよ、夏子は母を知らずに育った。婆たちや、15歳程度離れた姉・ヒサコに育てられたのではないか。
また、大叔父が下の世界に行ったとき、つまり1920年には、すでに80歳を超える歳になっていたことも推測される。下の世界には寿命が尽きて、死者になってから行ったのかもしれない。
さて、ここからは登場人物たちについて掘り下げていこう。
眞人の家族① 「無邪気な悪意」父・勝一
眞人の父親・勝一は、戦闘機の製造工場を営み、資産を築いている。妻たち(ヒサコ・夏子)も、地方の資産家である。舞台となる家は、妻の資産だ。
勝一は、悪い人間ではないが、典型的な昭和初期の成金だった。金持ち特有の傲慢さが、無邪気な言動の端々に表れている。
登校初日、「ダットサン(日産の前身)で学校に登校しよう」と提案する。当然、自分たちの身分や豊かさを見せつけるためだ。見せつけて、何になるわけではないのだが、単純に気分がいいということだろう。
また、勝一は学校に文句を言いに行った際、300円の寄付をしたことを、家に帰ってきてから眞人たちに自慢していた。300円というのは、現在の貨幣価値に直すと、約100万円。子供のことを教師に念押しするために、ポンと100万円を置いてくる父、それが勝一だ。
しかし、無邪気な悪意、傲慢さはあるものの、悪人ではない。
息子・眞人のことも、妻・夏子のことも、そして前妻・ヒサコのことも、勝一なりに真剣に愛している。工場で働く社員たちに対する態度も、常識的なものであった。成金的な性質を多分に持つが、やはりヒサコや、夏子が愛した魅力的な男性なのであろう。
眞人の家族② 「マウントママさん」継母・夏子
眞人の実母の妹で、継母の夏子もまた、自身が裕福な家庭、地元の名士の家系に育っていることを強く自覚している。それは、眞人に登校前語った「学校のことは心配しなくていい。先生にしっかりと『お願い』してあるから」という言葉にもにじみ出ている。
年表でも見た通り、本作は眞人にとって「お母さんが死んで1年後」の物語だ。
夏子は、ヒサコが亡くなった1年後、出会ったばかりの眞人に「私が新しいお母さん」だと宣言し、すでに身ごもっている自分のお腹を触らせた。もちろんこれらは、眞人を傷つけることに無自覚に行ったものではない。明らかな「悪意」を込めた行動だ。
さらに、その晩の勝一との情熱的なキスは、眞人がのぞいていることに気づいた上で、見せつけていた可能性すらある。
この一連の仕打ちは、思春期を迎えた少年にとてつもなく深い傷をあたえたことだろう。
夏子は、勝一を愛しており、勝一の前妻(自分の姉、ヒサコ)や、その子ども(眞人)に対する憎しみや、優越感といった感情を少なからず抱いているのだ。
だが、もちろん、それと同時に自分の姉に対する愛や、姉の子に対する愛も感じているはずだ。
そしてさらに、自分が眞人から受け入れられないのではないか、勝一の子供を産むことを姉・ヒサコから否定されるのではないかという恐れ、不安を抱いている。
年表から推測するに、夏子は母を知らない。父も知らなかった可能性がある。それが、夏子の勝一に対する強い執着に繋がっているのかもしれない。
愛しながらも憎み、敬いながらも嫉妬する。護ろうとしながら、傷つける。優越感を抱きながら、劣等感を覚える。人とは、かくも複雑な生き物だ。
そんな複雑で矛盾に満ちた存在を、本作において体現しているのが夏子だ。決して美しいだけの人形のような存在ではない。そして、夏子のこの複雑な感情は、のちの物語に大きな影響をもたらすことになる。
眞人の家族③ 「勉強し過ぎで狂気の王」大叔父
大叔父は、ヒサコ・夏子の母の祖父母の兄弟だ。賢く、膨大な量の本を読んでいるインテリだ。完全な世界を作りたいという狂気じみた欲望をもっている。
当然、万人にとっての完全など存在しない。その完全は自ずと「自分にとっての完全」ということになる。
だが、大叔父は、自分の寿命、時間が「完全な世界」を作るのに足りないため、その役割を子孫に引き継ぎたいと願っている。
そして自身の後継者として、他でもない眞人を待ち望んでいた。
だが大叔父には、同情すべき点がある。年表を見れば分かる通り、大叔父は生まれてから失踪するまでの約80年、度々、自国の戦争を目の当たりにしてきたのだ。いやになるよね、普通。インテリの大叔父は、なぜ理性的に解決出来ないのか、怒り、悩み、絶望したことだろう。
その絶望が、大叔父を下の世界に誘ったに違いない。自分ならば、完全な世界を創れると信じ込むのは、インテリが陥りやすい罠だ。
ある意味では、大叔父はそこを石につけこまれたとも言えるだろう。
眞人の家族④ 「永遠の善」母・ヒサコ/ヒミ
眞人の母・ヒサコはいうまでもなく、夏子の姉だ。そして、下の世界のヒミでもある。
異世界で本当の名前を奪われることで、火を操るような特殊な能力を得たのだろうか。
また、これは考察ではなく、完全な妄想だが、ヒサコは「久子」ではないか。「久」という字は、永久という意味もある。ヒサコは、「永遠の存在」という想いが込められているのかもしれない。
さらに、ヒミという名前は「火(ヒ)と水(ミズ)」から来ているのかもしれない。「火(ヒ)と水(ミズ)」はこの物語の重要な要素になっているからだ。あるいは、この名前はヒミコ(古代のシャーマン)から来ているのかもしれないが、これも妄想の域は出ない。
そして、ヒサコは、今作中、珍しく「悪意」を持たない、もしかすると唯一に近いキャラクターでもある。
眞人の家族⑤ 「クソガキの王」長男・眞人
東京からやってきた眞人は、まごうことなきクソガキの王だ。
学校や同級生に圧力をかけることを躊躇しないどころか、自分たちの特権と思っている両親の発想や行動に、眞人は疑問を持つことはない。
眞人自身も自分を特権的な人間だと思っているからだ。貧乏な同級生と仲良くする必要などないとさえ、思っているだろう。
だからこそ、放課後に同級生たち皆が、勤労奉仕にいそしむなか、それを素通りして帰ろうとする。そういうことをやらなくてよい身分だと思っているからだ。
殴り合いになる直前の同級生とのやりとりは、セリフが聞こえず、映像だけだが想像はつく。
単に勤労奉仕することを知らなかったのではない。それだけであれば、口論にならず、奉仕に加わったはずだからだ。
勤労奉仕をしないことを同級生から責められた眞人は、おそらく
「お前たち、貧乏人がやればいい」
くらいのことは言い放ったのだろう。諸々あり、自暴自棄的になっているという要素も当然あってもおかしくないが、それでもなお、同級生の反感を一身に受けて余りあるクソガキだ。
このことについては、小説『君たちはどう生きるか』にも関係しているため本記事・第3部でも、改めて触れる。
さて、しかし、眞人のクソガキっぷりは、ここで終わることがない。
この直後、眞人は自分の頭を石で殴打する。
もちろん、こうすれば確実に父親が報復をすることを知っての上だ。さらに、誰にやられたかを言わずにいることで、父親がさらに強い態度で学校に乗り込んで、同級生たちに報復することを見越している。
あざとさと悪意に満ちた行動と言えるだろう。
さらに、眞人は奉公人の婆たちをも見下している。
奉公人の婆たちは、心から眞人を守っている。斜に構えたキリコを含め、婆たちは皆、眞人の辛い境遇、心情を理解し、寄り添っているのだ。しかし、それに気がつけるのは、下の世界に行ってからになる。
眞人は、他者とのあらゆる「つながり」に気がついていない。
それが、眞人をクソガキの王にしているのだ。
当然のことながら、眞人は夏子に対する強い拒絶感、反発も持っている。だが、この拒絶感については、境遇を考えれば、クソガキゆえとはいえない。多分に同情すべき部分はあるだろう。
眞人の見た夢。「助けて眞人」
父の帰り直前に母の夢を見る。夢の中の母は、炎に巻き込まれ眞人に助けを求めていた。
のちに分かることだが、それは事実ではない。
物語の終盤、ヒミは別れの場面で「炎なんて、大丈夫よ」と発言する。炎を恐れ、息子に助けを求めるヒサコ(ヒミ)ではなかったのだ。
したがって、この「助けて眞人」という夢の解釈は3つ考えられる。
眞人の幻想。母ヒサコの強さを知らない眞人が勝手に、自分に助けを求める、苦しむ弱い母を妄想していた
アオサギ見せた幻想。アオサギは、眞人を連れ出すために、そのような幻想を見せて眞人を動揺させようとしていた
母が見せていた幻想。ただし母が眞人に求めたのは、眞人自身を掬うこと。「眞人、(眞人を)助けて」という呼かけだった
いずれに説にも一定の説得力はあると思う。どの解釈を選ぶか、またそれ以外の解釈を取るかについては、読者にお任せしたい。
アオサギの正体
この物語の中で、その正体を明示的に示すものがなにもないのが、アオサギだ。
アオサギは、アリスを地下の世界に導く、白ウサギのような役割を負い、下の世界と上の世界を自由に行き来する特権のようなものを与えられているように見える。
アオサギは、大叔父の命を受け、上の世界でヒミの子が成長し、この塔の地にやってくるのを待っていた。そして、その待望の後継者、眞人が来ると、「母が生きている」「母が待っている」「母を助けろ」と挑発し、眞人を下の世界へといざなったのだ。眞人が下の世界に来る動機は、母以外にないからだ。
このような状況から推測できるアオサギの正体は、「古くからの大叔父の従者」ではないか。大叔父が下の世界に行っときに、付いていった従者で、いつでも境界を越えられるように、鳥としての姿を与えられたのかもしれない。空を飛ぶ鳥は、古今東西「境界を越える存在」の象徴でもあるからだ。
ところで、この関係から、大叔父を宮崎駿として、アオサギを鈴木敏夫、あるいは高畑勲、はたまた手塚治虫とするような考察も見受けられる。
しかし本考察では、そのような「○○がモデル」といった考察は原則として行わず、物語をあくまでも物語として理解することを目的に考察している。「○○は誰々、何々」が分かったところで、肝心のストーリーがちんぷんかんぷんでは、もったいないからだ。以降も同様である。
話を元に戻そう。
元々アオサギはアオサギで、大叔父が下の世界に連れてきて、人の姿を与えたという可能性も考えられる。だとすれば、本人がアオサギの姿に誇りをもっているのも納得できるだろう。
アオサギは、パンフレットではサギ男と紹介されているそうだ。サギ男は、詐欺男ということなのだろう。実際、アオサギは騙してばかりいる。しかし、どこか憎めないところがある。クズなところもありつつ、その嘘を「生きるための知恵」といっていることから、虚言癖や悪意から嘘をついている訳ではないことも示唆されている。
風切りの7番
アオサギは「風切りの7番」という何かが、弱点になっている。
風切りとは「風切り羽」のことだ。
鳥の羽は部位によって、実はかなり大きさと形が異なっており、その役割も大きく異なっている。「風切り羽」は、その一種であり、翼の先端の大きな羽のことだ。7番は、外側から数えて7番目の羽。鳥は風切り羽を切られてしまうと飛べなくなると言われている。
だから、「風切り羽」は、鳥としてのアオサギの弱点ということなのだろう。単に弱点というよりも、アオサギの本質の一部なのかもしれない。だからこそ、その羽がついた矢はアオサギめがけて飛んでいき、羽を破ろうとするとアオサギ自身が痛がったのだと考えられる。
一方「7番」なのは、単に印象を強くするための演出的な設定ではないか。
ところで、なぜ眞人は、そんなにも都合よく風切りの7番を手に入れられたのだろうか。
偶然だとすれば、あまりに、御都合主義的だ。
多分、これには理由がある。
アオサギは、眞人にかなり大がかりな幻覚を見せている。
池の鯉と蛙がワラワラ出てきたあれだ。
その幻覚を見せるために、アオサギは自分の弱点でもある「風切りの7番」をそこに置いておかなければならなかったのだろう。
古今東西、タダ儲けは存在しない。魔法には対価が必要だし、勝利には犠牲が、売上には費用が伴わなければおかしい。
魔法のような幻覚をみせる代償、対価として、アオサギはあの場所に自分の弱点、自分の身体の中核である風切りの7番を残す必要があった。だからこそ、あの幻覚の舞台となった場所に来た眞人は、あの羽を見つけたのだ。
しかし、もちろん眞人はあの羽がアオサギにとって特別なものだとは知るよしもない。
アオサギからすれば、あり得たリスク。眞人からしたら、ラッキーな偶然だったわけだ。
水
水は、幻想と結びついている。一回目に出てきたのは、眞人がアオサギを木刀で殴った場面。あの一連の出来事は、現実の出来事ではなく、ベッドで寝ていた眞人の見た幻想だ。
それは、自分が視た夢のようなものではなく、アオサギによって見せられた幻想だった。木刀が壊れていなかったのが、その証拠だ。
だから気を失い、いきなり水の中に揺蕩う眞人の姿は、幻想のシーンなのだ。その幻想が解けると同時に、ベッドに横たわる眞人から謎の水は引いていった。
二回目は、アオサギが作った母だ。母は、眞人が触れると水になってしまった。
三回目は、下の世界が崩壊するとき。大量の水があふれだし、下の世界を飲み込んでいく。この下の世界自体が、巨大な幻想だったことを示か唆している。
落ちてきた石
明治維新の頃、屋敷の裏手にある池に、天から落ちてきた。炎に包まれ、池を失わせ、森を焼いたが、30年の時を経て草木の茂る石の塔となった。石は、池の水も炎も飲み込んだのかもしれない。
この石は、「動く天」からやって来た超越的な存在なのだろうと私は考えている。この点については、また本記事・第3部で触れたい。
いずれにせよ、この石は大叔父に「完全な世界」を作る力を与えたことは、間違いない。だが、のちに詳述するが、それは決して善意によるものではない。
赤いバラ
塔に眞人とキリコが辿り着き、大叔父と僥倖を果たしたとき、大叔父は赤いバラを投げて、眞人、キリコ、アオサギを下の世界にいざなった。
このバラは、下の世界のもので、上の世界と下の世界をつなぐ役割をもっている。ラストシーンで、眞人がポケットに小さな石とキリコの人形を持ってきたことで、「記憶」という形でささやかに「下の世界」と「上の世界」はつながったが、このバラはより強力に、二つの世界をつなぎ合わせた。
そのことから、私はあの赤いバラが、大叔父の住む「天国」に咲いていたものではないかと推測している。ヒミの家の外壁にもバラが咲いていたので、もしかするとそのバラかもしれないが。
第2部:「下の世界」をどう見るか
ここからは、いよいよ「下の世界」について詳しく見ていこう。まずは、そもそも「下の世界」とは何かについてから、解説をはじめたい。
「下の世界」とは何だったのか?
「下の世界」は、下の世界は、ある意味時間が止まっている。大叔父は老いず、ヒミは成長していない。
過去と現在、永遠と刹那、生と死の交差点。地獄であり天国であり、煉獄(天国と地獄の手前、現世との交点)。といったところだろう。
だからこそ、20年は離れている眞人の神隠しと久子の神隠しが、下の世界で交わったのだ。以下、私が作った図を記載する。眞人がどこからみても、みやぞんなのは、ご愛嬌である。
ヒミ、眞人は別々のドアから出たために、それぞれ(ほぼ)元の世界に戻ることになった。
ところで、下の世界に呼ばれるには、とある共通するきっかけがありそうだ。それは「絶望」または「深い悲しみ」である。
大叔父は、争い殺し合う世界に絶望していた。
ヒサコは、母を失った悲しみに沈んでいた。
眞人もまた母を失った悲しみや、夏子に父すら奪われるかもしれないことへの絶望に取り込まれていた。
夏子は、眞人や姉への罪悪感に絶望していた。下の世界に行く直前、眞人の頭の傷を見て流した涙が、それを表している。
もうひとつ興味深いのは、この世界にも「死」が存在することだ。ヌマガシラも死に、老いたペリカンも死に、ワラワラたちも死んだ。しかし、大叔父や、ヒミ、ヤング・キリコたちの時間は止まっているように見えるので、寿命のようなものはないのかもしれない。
火
火は、ヒサコの命を奪ったことをはじめ、たびたび象徴的に物語に出てくる。
キリコの鞭は火を生み出し、墓所で眞人を救った。
ヒミの能力は、火を生み出すことだった。それは、インコやペンギンを追い払い、同時にワラワラを焼き消した。
火は命を奪うものに結びついている。
同じく象徴的に出てくる水は、この火を消す力をもっている。少し踏み込んだ見方をすれば、水=幻想(イマジネーションというべきか、ハルシネーションと呼ぶべきか)は、火、すなわち命を奪うものを消すことが出来るということなのかもしれない。
ヒミとヒサコの神隠し
ヒサコは、子供の頃神隠しに会ったと説明されていたが、神隠しにあって、下の世界にいき、そして、眞人と再会した(上記図を参照)。
ヒサコは、なぜか名前をヒミとしている。
もしかすると、ヒサコという名前を失い、その代わりにこの世界で老いず、特別な火の力を得たのかもしれない。
この名前、ヒは火に、ミは水から来ているのではないだろうか。
ちなみに、キリコもヒミと同じドアから出たことから、キリコも実は同時期に神隠しにあっていたことが分る。
キリコもまた何かに絶望していたのだろう。キリコの絶望についは後述する。
作中、キリコの神隠しが言及されることはないことから、キリコ自身はそのことをすっかり忘れていることが分かる。
神隠しの頃から屋敷に奉公していたのか、それとも、まったく違うことをしていたのかは定かではない。勝一に婆がヒサコの神隠しを語った際、キリコの神隠しには触れなかったことから、屋敷にいなかった可能性もある。
石
石は、炎と水と並び、本作で繰り返し出てくるモチーフだ。墜ちてきた石の塔、石の壁、墓石、天国の地面に堆積した小石、大叔父のもつ積み木型の石。
上の世界は木造建築が主だが、下の世界は、石造建築が主だ。上の世界でいえば、石造は例の塔だけであり、下の世界でいえば木造建築はキリコの住む廃船だけではないか。
本作において石は、「絶望」「悪意」「死」といったものを象徴している。
下の世界に来るものは、すべて「絶望」「悲しみ」を負っていることは先に見た通りだ。
そしてその「絶望」や「悲しみ」は、非常に多くの場合「悪意」へと連なっていく。これは小説『君たちはどう生きるか』で語られているこの世の現実だ。これがこの世の真理であるか、また私がそれを信じているかどうかを論じることは、本記事の目的ではないので、割愛する。
さて、大叔父のいる場所は、小さな石がそこかしこに埋まっており、それは墓石と呼ばれている。眞人が石を拾おうとしたとき、ヒミは「触るな、まだ何か(悪意のようなもの)が残っている」といった。「まだ」というからには、いずれ消えるのだろう。
大叔父が眞人に見せた積み木のような石もまた、そのような性質をもっている。
この積み木の石は、大叔父が外の世界から連れてきたものの象徴か、あるいは大叔父自身から産み出されたものなのかもしれない。
最後に眞人に託そうとした、ようやく見つけた「悪意のない石」は、つまり絶望してなお、悪意のない存在ということになる。それらは、ヒサコ、キリコ、そしてもしかすると、アオサギらを象徴している。
ワレヲ學ブモノハ死ス
巨大な石造りの墓の前に、黄金の門があり、そこに「ワレヲ學ブモノハ死ス」と書かれている。
その門の奥に鎮座するのは巨大な墓「石」であることから、「ワレ」とは「絶望」「悲しみ」、あるいはその先にある「悪意」だと解釈できる。
それらを「学ぶ」と、つまり「絶望」や「悲しみ」を聞き、読み、理解したつもりになると、やがて「絶望」や「悲しみ」、「悪意」に飲み込まれるということだろう。
実は、これもまた小説『君たちはどう生きるか』で取り上げられている、この世の現実なのだ。
墓の主
門に閉ざされた墓の主とは何者だろうか。
下の世界の石に宿った悪意はやがて消えるとすれば、どこに消えるのか。もしかするとこの門に閉ざされた墓に集まるのかもしれない。
下の世界で蓄積された膨大な悪意、それこそがこの墓の主だろう。だからこそ、墓は閉ざしておかなければならないのだ。
ワラワラ
かわいいワラワラは、無垢なる新たな命を象徴している。時が来ると上の世界に飛び立ち、赤ん坊として生まれることから、それは子供の魂のようなものなのだろう。飛び立つときの螺旋はどこかDNAを彷彿とさせる。
ワラワラは、地面に根をはる植物から生まれるように見えることから、下の世界の存在、絶望と悪意をもった存在は、死ぬと地面を支える石になり、悪意が消えたのち、無垢なる命ワラワラとして転生するのかもしれない。
この世界では、自らが殺生することを禁じられているため、飢えている影のような人々がいる。彼らは、上の世界で、絶望とともに死んだ者たちだ。上の世界の状況を考えれば飢えて死んだものが大半なのだろう。
彼らの食料は、ヤング・キリコの取る魚、ヌマガシラだ。この魚は巨大だが、いかにも量が少ない。恐らく、この人々はこの世界でもまた飢えて死んでく運命なのだ。
上の世界で、飢えて死に、下の世界で飢えて死ぬ。ワラワラとなり、上の世界で生まれてもまた、飢える世界が待っている。だからこそ、ワラワラに飛び立つ前に、食事を与えられたことにキリコは「食べさせてあげられてよかった」とつぶやき、涙したのではないか。
ひょっとすると、キリコは上の世界で子供を飢えでなくしているのかもしれない。この解釈は、キリコが下の世界に呼ばれたことや、ワラワラのために涙したこと整合的だ。
婆の人形
キリコの自宅で、眞人は6人の婆の人形に囲まれて目覚める。キリコは「お前を守っているんだよ」と言う。実際に何をしてくれたわけではない。たったそれだけだが、得体のしれない下の世界に来たとき、婆たちの姿をかたどったこの人形に見守られていることが心強かったのだろう。
同時に、婆たちは自分の看病をし、自分がいなくなったときは捜しに来てくれた、キリコは下の世界について来てくれさえした。そのことに今更ながら、気がついた。
自分が孤独ではないこと、守られているだけの存在だったことに、ここで眞人は思い至るのだ。
ペリカンたち
ペリカンもまた、飢えた者たちだ。ペリカンは、飢えという絶望からこの下の世界に呼ばれたのかもしれない。
老いたペリカンによれば、ペリカンたちは食料のないこの世界に連れてこられ、抜け出すことはかなわず、ワラワラを食べるしかない宿命、呪いに囚われている。
もしかすると、ペリカンが食べられるのは生きている、無垢なものだけなのかもしれない。
墓の門のところで、ペリカンは眞人を食べようとするが、食べられなかった。キリコによれば、眞人がアオサギの羽を持っていたからペリカンに食べられなかったそうだが、そのときキリコは大笑いしている。アオサギの羽が、「死」と「無垢でないもの」、その両方を備えていたからではないか。
また、ワラワラを食べることは、上の世界にいくワラワラの量の調整になっている可能性もある。膨大な量のワラワラが、そのまま上の世界に行ってしまうと、上の世界がさらに不安定になり、苦しみが増すからだ。
食物連鎖の業のようなものを負わされているともいえるだろう。
ちなみに、ヒミもワラワラを焼くことに、躊躇をする様子はない。おそらく、ワラワラを焼いたところで、またすぐに生まれ変われることを知っているからだ。
産屋の禁忌
夏子は産屋で、この世界から守られていた。
その証拠は、2重に張り巡らされた紙垂(シデ)にある。紙垂とは、神聖な場所を示す白い紙。神社などでしめ縄につけられている、ギザギザの形をした白い紙を見かけたことがあるだろう。あれだ。
紙垂が貼られていることから、身重の夏子は、この世界で神聖な存在であることが示されている。だからこそ、そこに立ち入ることは禁忌、タブーだったのだ。
なぜか。
大叔父の血を引く夏子の子こそが、石の主が選んだ大叔父の後継者、この下の世界の新たな王になるからだ。
大叔父の後継者
石との契約で、大叔父は、自分の血筋のものにしかこの下の世界を継がせることは出来ない。
石が選んだのは、夏子の子だ。
しかし大叔父が選びたかったのは、ヒサコの子、眞人だった。
だが、ここでひとつの疑問が浮かんでくる。なぜ、ヒサコ、ヒミではないのか。ヒミは明らかな傑物だ。15歳時点の人としての完成度は、眞人よりも遥かに上だろう。悪意を持たず、清い存在だ。
だが、大叔父は、そのヒミを選んでいない。
眞人が積み木のような小石の孕む悪意に気づいたとき、大叔父は「それに気づくお前にこそ、この世界を託したい」と言った。
悪意を持たないヒミは、大叔父にとって、この世界の後継者としては不足していたのだろう。
夏子の子は、悪意とは無縁の赤子の状態で後継者になるとすれば、それもまた後継者としては不足なのだろう。あるいは、夏子の子は上の世界を知らないこと、絶望がないことが、大叔父にとっては不満なのかもしれない。
夏子自身は、悪意を持ち、上の世界の経験もあるが、おそらく苦悩や世界に対する理想のようなものが不足している。
やはり、悪意も苦悩も理想も葛藤も持ち、足掻く眞人が理想の後継者だったのだ。
インコとDuch
インコもペリカン同様に大叔父に連れてこられ、その後、爆発的に増えた群衆的な存在だ。そこには、無自覚な悪意と暴力性があり、また従属的、盲目的という性質までついている。まるで、SNS上の人々のようだし、実際に、そのような存在を暗喩しているのだろう。
しかし、これがインターネットやSNSへの批判だとは限らない。
インコたちは、ナチス党のような旗(イーグルの変わりにインコがあしらわれている)を掲げ、インコ大王に熱狂している。
ようするに、ここで暗喩されているのはSNSではなく、いつの時代にも変わらない大衆の性質そのものなのだ。
さて、このインコたちを束ねる者が、インコ大王だ。インコ大王は、皆からDuch(デューク)と呼ばれ、プラカードが掲げられていた。Duchは、フランス語で公爵。五爵(公侯伯子男)の第一位にあたる爵位。要するに、王に準じる爵位だ。
蛇足であるが、大王は「キフジンインコ」という品種のインコかもしれない。キフジンインコは、Duchess Lorikeetと呼ぶ。Duchessとは、侯爵夫人のことである。
鍛冶屋とは何者か?
鍛治屋は、アオサギによって唐突にその存在が語られるが、登場はしないので、全くの謎である。おそらく、大叔父に連れてこられた存在の一人なのだろう。
「鍛治屋を通らないと、夏子のところに辿り着けない」
とアオサギがいっていることから、門番的な役割を担っていたことが窺える。
鍛治屋といえば、「火」を使い鉄の鋳造をする仕事だ。本作で死と結びつけられることの多い火から、モノを生み出す仕事という性質が、鍛治屋の正体に関係しているかもしれない。
また、この鍛治屋は、インコによってすでに殺されている。モノを生み出す者が、大衆に殺されるというのは、現代の社会を象徴させているのかもしれない。
天国へと続く回廊
大叔父の暮らす「天国」へと続く、輝く通路は、天井に向かうにつれ幅が狭くなっている。不思議な形状だが、実は、これは、ギザの大ピラミッドの大回廊と同じ「持ち送り構造」と呼ばれる構造なのだ。この構造は、上からの重量を分散する効果があるといわれている。
ピラミッドの大回廊は、死んだ王が安置される「王の間」と現世を結ぶ回廊だ。本作では、その象徴的な意味が取り入れられているのではないか。
さて、ここまでが舞台設定に関する個別の考察、いわば点の考察だった。いよいよ、点と点で組み立てられた物語自体について考察を進めていく。
第3部:物語の考察。「君たちはどう生きるか」
ここからは、課金コンテンツとなっている。ここまででも、十分に2周目を楽しめる考察となっていることを確信しているが、さらにここから先を読んでいただければ、点と点が繋がり、大きなストーリーが見えるようになっている。
天動説と地動説、コペル君
大叔父は、自分にとっての完全な世界を作ろうとする。それは、小説『君たちはどう生きるか』でいうところの、天動説そのものだ。
眞人は長い旅を経て、地動説に辿り着く。この世は自分を中心に回っているのではない。自分に都合のいいことだけではない。すべての人が、不完全ながら、この世の一部を担っていて、そして繋がっている。その繋がりが、人を幸せにし、この世をよりよいところにしていく。
悪意を昰として、その世界で友人を作り生きていくことを選ぶ。
コペル君と同じ結論に至る。
小説「君たちはどう生きるか」で、裕福な家庭に育ったコペル君は、自身が裕福だからといって貧しい人々を見下すことはしない。だが、貧しいとはどういうことなのか、貧しい人々とはどのような人々なのかに関心を払ったことは、一度もなかった。単に「貧しい」という言葉を学んで知っているに過ぎなかったのだ。
貧しさを見下す人々は、もちろんいる。同様に貧しさで卑しく、愚かになる人々もいる。そしてコペル君のように「無関心」という人々もいる。
眞人のようなクソガキというほどではないが、コペル君もまた頭でっかちで、安心と余裕のある所から、評論家的に世界を知った気になっているだけの少年だった。
「ワレヲ學ブモノハ死ス」を地でいっていたのだ。
だが、コペル君は貧しい同級生との出会いの中から、それまで歯牙にもかけなかった、まったく関心を払わなかった貧しい人々と自分の間にもつながりがあること、すべての人が集まり繋がっているのが、この世の本質であることにきづく。
そして、そのつながりから生まれた葛藤で、コペル君は苦しみ、自身や友に向き合うことを学び成長した。
眞人の成長
コペル君よりたちの悪いクソガキ眞人もまた、この冒険を通じて成長した。叔父に導かれ成長したコペル君のように、眞人もまた大叔父に(反面教師的に)導かれて成長を遂げた。
自分の悪意に向かい合い、地動説に目覚め、人との繋がりに気づき、人と繋がることを欲するようになったのだ。
同級生とのいざこざ、コペル君のそれよりも攻撃的で、さらに強い悪意を含んでいた。だが、上の世界に戻った眞人は、すべてを告白し、謝罪し、そこで仲間を作ったはずだ。
婆の人形を通じ、婆たちから向けられた愛情や結びつきにも気づいた。
夏子を母として受け入れ、夏子の悪意も飲み込んだ。
喰われるワラワラたちに、涙を流した。
ペリカンのことも、最初はワラワラを食べるというところだけしか見えず、邪悪な存在と捉えていた。しかし、老ペリカンとの対話から、ペリカンの負っている宿命や苦悩があることを知り、より大きな命の循環、彼らの世界とのつながりにも気づき、深い同情を感じられるようになった。
自分を騙してばかりのアオサギの、自分に向けられた優しさに気づき、友と呼ぶようになった。
母を知り、母と自分がつながっていることにも気づけた。
大叔父の天動説を否定した。空から墜ちてきた石は、大叔父に「完全な世界」を創らせようとした。それは「天が動く」という観念が産み出した、悪意の塊のようなものだったのだろう。おそらく人とつながることを知らなかった大叔父は、そこにつけこまれ、担ぎ上げられたのだ。
眞人は、人を悪意から切り離せないことを理解しながらも、友たちとともに高潔に生きるよう努力をすることを誓った。
なにより、自分で「どう生きるか」を選択したのだ。
それが、この物語の主題である。これは、まさに小説「君たちはどう生きるか」の主題そのものだと言えるだろう。
夏子の憎しみと和解
産屋で夏子は眞人に対し、「あんたなんて大嫌い、出ていけ」と叫んだ。
あれは、眞人を守るためではない。本心なのだ。
だが、眞人はそれに怯むことなく、夏子を「母さん」「夏子母さん」と呼びかけた。
眞人から受け入れられることはないと思い、眞人への憎しみを増幅させることで夏子は、気持ちを保っていたのだろう。しかし、眞人に受け入れられたことで、夏子は眞人に対する不安や恐れがなくなり、憎しみを捨て姉の子、愛する夫の子に対する素直な愛情を取り戻すことが出来た。
眞人の成長により、夏子は救われた。
そして、二人の間には、新たなつながりが紡がれたのだ。
ヒミとヒサコの愛と救い
その眞人に、ヒミはいう「お前、いい子だな」。「炎なんて怖くない」「お前のようないい子を産めるんだ、すばらしいじゃないか」。
眞人にとって、母による眞人自身の肯定は、本来は望んでも永久に手に出来なかったはずものだった。
この一言、この最後の抱擁は、眞人がこれから先、どれほど生き方に迷ったとしても、必ず勇気や自信を与えるに違いない。
また、夏子もまたヒミに「丈夫な子供を産め」と、自分と勝一の子供を肯定され、祝福される。
夏子もまた、ヒミの愛により悪意を乗り越えたのだ。
アオサギがいう通り、「ヒミは強い人」なのだ。
ところで、久子は神隠しから現れたとき、笑って出てきたという話があった。
ヒサコはヒミだった記憶、眞人と出会った記憶をすべて持って出てきたのだ。明言されていないが、眞人のようになにか「お守り」を持って出てきたのだろう。
だからこそ、将来の眞人に『君たちはどう生きるか』を遺した。眞人が傷つき苦悩するときに自分自身が隣にいてやれないことを知っていたから。そうでなければ、買えばすぐ手に入る本をわざわざ遺すことはしないし、それをメッセージつきで実家に残すこともないはずだ。
眞人の孤独も悪意も知った上で、人は生き方はそれでも変えられることを知らせたかった深い母の愛がそこにはある。
「生きろ」「生きねば」「どう生きるか」
メタ的に言えば、「生きる」ということが宮崎駿作品のテーマだったのかもしれない。「生きろ(命令)/もののけ姫」「生きねば(義務)/風立ちぬ」ときて、「どう生きるか(問い)/君たちはどう生きるか」に至った。
それは、次の世代、未来の世代に対するメッセージであり、賛歌なのだろう。
『君たちはどう生きるか』の冒険は、母の愛で締めくくられ、そして、2年後東京に帰るシーンで幕を閉じる。
その最後の眞人の姿、表情には、単に2年たったというだけではない、「自分の生き方を決めた」少年の大きな成長がはっきりと刻まれていた。もう、眞人はクソガキではない。単にクソガキの振る舞いをやめたのではなく、向かいかうことで、真に成長したのだ。
物語は、すべての観客に問いかける。
「君たちはどう生きるか?」
あなたは、この物語をどう受け取るだろうか。
そして、どう生きるだろう?
この長い記事が、ここまで読んでいただいた読者みなさんの2周目の鑑賞のモチベーションになったことを祈っている。
「君たちはどう生きるか」
私は、とりあえず、この記事に「いいね!」を押すとを強くお勧め、、、、お願いします笑
完
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