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致命傷のふたり 第1話(全5回)

あらすじ

五十代間近で従兄妹のふたり、大人になれない大人の恋。
チカコと小太郎は父親が双生児の従兄妹であり、福岡の田舎町で同居している。
チカコは実母の介護と夫の不倫で家庭が壊れ、離婚後はカウンセリングに通っている。元夫に親権を譲った娘は継母に懐いており、母親の立場も失った。一方、裕福な家庭に育ち独身貴族を謳歌してきた小太郎は出世街道に疲れ自信を失っている。
幼い頃から犬猿の仲だったふたりは祖母が遺した屋敷に同居して居場所を得た。笑い合い、ときめいて、やがて激情を抑えきれず躰も結ばれる。
結ばれるのが遅すぎた運命の恋は残酷だ。だがそれは優しく、彼らの後半生を幸せに包んでゆく。

4エピソード、26000字完結。

#1.致命傷のふたり


 一言では説明できない人生の紆余曲折があって、小太郎とチカコは現在同居している。
 その理由を簡単にまとめてしまえばつまり、恋だった。

 四十代半ばを過ぎた中年のふたりがとある屋敷の所有を巡って大喧嘩をしたあげく、それはちょうど去年の今頃、彼らはあっけなく恋に落ちた。だから仲良く同居することにした。
 肌をすり合わせたわけではないが、大人の男女が「好きだ」「好きよ」と意思を確認したのだから両思いで間違いない。

 一緒に暮らしているが籍は入れない。

 赤の他人を人生に招き入れるための心の儀式も必要ない。なぜならふたりは元々他人ではない。
 姓が同じ従兄妹なのだ。
 父親たちが一卵性の双生児だった。クローン生命体のような美しい一対で、戦後ベビーブームの同じ日に生まれて正反対の人生を歩み、そしてなぜか同じ日に死んだ。
 父親同士が同じ顔をしていたのでチカコと小太郎も似た顔をしている。
 全体的に凜々しく美しく整っているが額が広くてやや鼻が低い。今が平安時代の世ならふたりは間違いなく絶世の美男美女だった。



 そんな中年同士で従兄妹同士で恋人同士のふたりが、今日、デートをしている。
 初めて訪れたオシャレな街のオシャレな商店街を散策している最中に、オシャレなセレクトショップに立ち寄った。これでもふたりはバブル景気の最終列車に滑り込んだ世代だ、たまには青春時代のように若者向けのショップに入りたい。

「うわあお似合いです、おじさま、すっごく可愛いですう!」

 甲高い声が飛び跳ねた。
 ショップ店員になるため生まれてきたかのような声だった。オクターブの彼方を超える震動だ。
 ちょうどそのとき、チカコは目前の棚からサンダルを手に取っていた。

「道の駅で売ってる民芸品やん……」

 昔話の主人公が夜なべして編んだ草履のようだがお値段は五万円。ありえない。いや材料費はともかく職人の技術と手間を考えればこれが正しい価格なのだろう。チカコにはハンドメイドの相場がわからない。

「あ、後ろ姿もぴったりですね、さいっこーに素敵ですっ」

 店の奥からはさらにテンションの上がった若い声が響く。
 発生源は試着室の前だ。チカコは溜息をついてから視線を向けた。

「休日出勤のジェームズ・ボンドって感じですよ、あっほら、ダニエルなんとかって俳優のひと!」

 チカコが握っている五万円のサンダルもすごいが店員の声もすごい、鼻ピアスと金髪がすごいしあまりにも適当な褒め言葉もすごい。
 そして何よりも小太郎が試着しているアロハシャツがすごい。

「そうかなあ、おじさんちょっと浮かれすぎてないかなあ」

 試着室から出てきた小太郎が、姿見の前でくねくねとポーズをきめている。
 無駄に腰の細い中年男だ。
 アロハシャツの裾がひらりとめくれ、その胸ではホッキョクグマとペンギンが集団催眠状態でフラダンスを踊っている。

「お客様のような素敵なおじさまがこういうキャラものを着ると可愛いくてたまんないですよ! 大人男子のそういうところにあたしたちアラハタ少女はキュンなんです」

「チカちゃんどうよこのアロハ。見てみ、きみもおれに胸キュンキュンやろ。……きみ何を持ってんの? その草履を買うの?」

 小太郎がチカコを呼んだ。
 チカコは慌てて高級サンダルを棚に戻す。

「か、買わんよ」
「そんなのいいからおれのシャツ見て」

 小太郎は勝ち誇った顔をしている。アラハタ女子をキュンキュンさせているアラフィフ男子のどや顔だ。
 チカコは腕を組んだ。

「ホッキョクグマは北極でペンギンは南極の生き物っちゃろ。この二頭がハワイで出会ってフラダンスなんてありえん」

 小太郎は鼻で笑い飛ばす。

「ハッ、チカちゃんわかってないね。北極も南極も極東ロシア連邦本部ハバロフスクもないのだ。イッツァスモールワールド、世界は狭い、みんな仲良し小さな世界っていうありがたい概念を曼荼羅にしてるわけよ。つまりこれは宇宙なんよ」

「コタそれ買うの?」
「買うわよォ。一目惚れだわよォ」
「バカなの?」

「チカちゃん、きみね、そういうところおれに対してじゃっかん失礼すぎやせんか」

 ここで店員がぷっと失笑した。

「仲良し夫婦漫才ですね。うちの両親とはぜんぜん違って、ラブラブでうらやましいーっ!」
 
 夫婦ではない。
 けれどふたりは恋仲だから否定はしない。
 ふたりと同じ年代の両親がいると自白した店員は、さらに一歩踏み込んで踵を上げた。

「これほんっとすっごく人気のあったデザインのシャツで、なぜかもう出回ってないんですよー。次はいつ入るかわかんない品なので、もうこの一枚だけ!」

 店内はゆるいボサノバが流れている。
 おそらくボサノバだろう。
 チカコも小太郎もボサノバはイパネマの娘しか知らない。こんなにも長く生きていながらふたりは知らないことが多すぎる。

「オーケーオーケー、オーケー牧場の下克上。おじさん買っちゃいまーす」

 小太郎は再び試着室で着替え、はふーん、と訳もなく艶っぽい息をついて出てくると、脱いだシャツを店員に差し出す。英国俳優のセクシー気取りかよとチカコは呆れる。

「わあありがとうございますー。お会計、ちょうど二万円になりますー」

 チカコはささやかな悲鳴をあげた。
 すでに店員はカウンターでレジスターの数字を叩いており、インドカレー店が食器に使うようなアルミプレートを差し出している。
 小太郎は財布をひらくと一万円札を二枚抜いてその皿に置いた。即金ニコニコ現金払い。
 ありえんわと呟いてチカコは小太郎を見上げる。

「デザイン科の学生が五秒でラクガキしたようなアロハシャツが二万円て」

「高いよな、わかる、チカちゃんの言いたいことはおれよくわかるし実際のところおれもちょっと高いなとは思うんよ。でもちょっと考えてほしい。このシャツは二万円だけど、おれがこうして自分の財布から出した金で支払っているんだからきみが傷つく必要はない」

「いやべつにあたしは傷ついてるんじゃなくて社会常識とか倫理観の」

「そこも考えてほしいところなんだよ。たしかに二万円なんだけど、おれはこれからこのシャツを最低でも五年間は手元に置いて着放題なわけ。つまりサブスクリプション。実質四千円ってことになる」

 と、細い指を裏向きに四本立てて小太郎が言う。英国俳優セクシー気取りがまだ続いている。
 だからチカコはふんわり吐息し、いきなり、こちらも英国女優気取りで大仰にのけぞった。

「……す、すごいわコタ! さすが旧帝大」
「イェーイ」
「アメージーング」

 ふたりはぱちんぱちんと両手を合わせた。そしてけらけらと笑った。チカコは小太郎の白髪をいとおしく思い、小太郎はチカコの笑い皺がとてもきれいだと思った。
 そんな計算式が成り立つわけねえだろうとふたりは知っている。
 小太郎は頭のよろしい大学を出て大きな会社で部長をしている。チカコは長らく家に籠もって介護をやっていたから家計の流れに敏感だ。それなのに、そんなアホなと思いながらも笑って手をたたき合った。
 なぜならそれがふたりの正解だから。

「当店のポイントカードはお持ちですかー」

 ボーカロイド声の周波数で店員が訊く。小太郎は頭を振る。

「ないです」
「お作りはよろしかったですかー」
「おじさんそういうのはすぐなくしちゃうからいらないです」
「ありがとうございましたー」

 環境に優しい紙袋に畳んだシャツを入れて、店員は店のドアまで送ってくれる。
 見送りの最後に「おしあわせに」と言って手を振ってくれた。

 二十歩遠ざかったところで小太郎が小さく「金髪はいいけど鼻ピアスと声がやばかった」と呟き、チカコは「ちょっとだりけゆりこに似てたわ」と、離婚した元夫と優しい継母に愛され元気に暮らしている娘に思いをはせた。

 次は、地元ローカル情報誌に載っていた行列の出来るコーヒーショップに行く。
 そこでエスプレッソを飲んで、コーヒー豆を買うのだ。

 同居しているふたりはたまに食卓でコーヒーを飲む。
 同居当初、チカコがコーヒー豆を電動ミルで粉砕する工事現場のような音が響くと小太郎は心底うんざりした。だが最近は慣れてきた。むしろ幸福感をおぼえるようになった。恋とはたぶんそういうことなのだろう。

 ふと仰げば柔らかな春の日差しだ。

 紙袋を右手で振り回しながら、小太郎がちょいちょいと左手の指を振って誘う。
 チカコは迷わずその指をつかむ。
 指先の先の先だけを絡めて歩く。

「そうだ、ハワイ行こう」

 小太郎がチカコの耳に囁いた。
 雑踏に紛れてその低い声は彼女にしか聞こえない。

「そんな京都観光みたいなテンションで? そのシャツを着てくの?」
「そう。ハワイ。新婚旅行だ」
「あたしたちは夫婦じゃないよ」
「おれは初めての新婚旅行だ。チカちゃんは?」
「二回目。言わせんなよう」

 だから夫婦じゃないんだってば。ねえ。チカコは苦く笑う。

 すでに人生瑕疵だらけの中年従兄妹ふたり、たまたまお互いひとりぼっちだったので、恋をして、祖母が遺した空き家で同居している。

 そこに至るまでの道は険しかった。

 ふたりは子供の頃から犬猿の仲で、親戚内でもっとも相性が悪い。
 それなのにこうなったのは、単純に、ただ単純に寂しかったから。そしてふたりはどうしてもどうしても、どうしてもばあちゃんの家を相続したかったから。

 ふたりが幼い頃から盆正月に帰省していた祖母の家だ。
 近所の住人も、ふたりが従兄妹同士で相続争いの果てに大人の関係になったのだと知っている。地方の住宅地なのだから隠し事は出来ないし隠すほどのことでもない。そもそも誰にも迷惑をかけていない。
 だからふたりは開き直って暮らしているが、やはり町内で手を繋いで歩くのは恥ずかしい。

 休日には買い出しと称して車で遠出する。
 デートだ。
 ふたりのことを誰も知らない、知り合いがいない街へ行く。

 ローカル情報誌に付箋を貼って、カーナビに目的地をたたき込んで見知らぬ街の見知らぬ商店街を歩く。そして衝動買いをする。素敵なご夫婦ですねと声をかけられ照れながら否定はしない。
 見つめ合ってコーヒーを飲み、くだらない会話ではしゃいで笑う。

 なるべくいつも正解であるように。
 ふたりが呑気にあるがままでそれが正解であるように。

 行列のできるコーヒー屋に並び、コーヒーを飲みながらシフォンケーキを食べた。
 窓際のテーブルは狭かったが、その分、顔が近づくのはいい。小太郎は何でも美味そうに食べる。チカコはその表情を眺めるのが好きだ。
 途中で小太郎のスマホが短く鳴った。

 二度、三度、四度鳴る。

「誰かがコタに熱いメッセージを続々と送ってきてるやん。既読をつけてあげなよ」
「電源を切り忘れてた」
「切る必要はないでしょ。仕事の話やないの?」
「ちょっとごめん。すぐ戻る、三分で」
「コタが戻らなかったらひとりで電車で帰るから」
「やだやだやだよ絶対に待ってろよ!」

 母親に駄々をこねる十四歳児の口調で命じると、小太郎はスマホを掴んで店の外に飛び出した。

 チカコはテーブルのメニューを眺めながら三分を過ごした。
 シフォンケーキではなくモンブランでも良かったかもしれないと、せんなきことを考えた。
 考えながらも席を外した小太郎が気になる。

 そういえば学生時代。
 当時つきあっていた元夫からもこんなふうに置き去りにされた。
 あの頃はポケベルの時代だ。元夫はコーラを飲みながらチカコと甘い会話を交わし、数分おきにポケットからポケベルを取り出し眺めていた。そして意味深な数字を受信すると、恋人のチカコを放り出し公衆電話ボックスへと走って行った。

 チカコは頬杖をついた。

 誰かの本命女になるということは、いつも誰かの帰りを待たねばならぬということだ。

「ただいま」

 小太郎が席に戻ってきた。

「うん。おかえり」

 座ったとたんに小太郎は早口で語りはじめた。

「隠し通せる自信がないから先に言うけど、先週、会社の祝賀パーティーで名刺を交換したひとが、女性で、なんかあの、折り入って相談があるからお酒でもという誘いで、おれがいいですね是非是非って返事したら、いつにしますか都合合わせますその前に電話で話せませんかゴルフはお好きですかクラシックコンサートはいかがですか云々、それで今も、」

 小太郎の早口を遮ってチカコは尋ねる。

「どんなひと?」
「悪人ではないと思う。無邪気だけど頭がきれる、さんじゅうろくさい、独身、元モデルでとてもきれいだ、今は起業して、わりと趣味が合う……」

「コタは絶望的に運動神経ゼロで鈍くさいからゴルフは駄目でしょ、初デートはクラシックコンサートにしとき。あたしがお出かけスーツを選んであげるから新しいの買って」

 チカコが軽やかに言う。
 小太郎は少しだけ視線を上下させ、冷め切ったコーヒーを飲み干して小さく応えた。

「それじゃ遠慮なく頼むわ。チカちゃんの選んだスーツで行く」
「あ……。うん、任せとき」

 チカコの前髪がふわりと揺れる。
 だから小太郎は慌てて言葉を継いだ。

「でも仕事の付き合いだからごめん。家計簿の勘定科目は交際費で」
「オーケーオーケー、オーケー牧場の下克上」
「なあ」

 小太郎の顔がぐいとチカコの顔に迫る。

「――チカちゃんが元旦那の奥さんだったときも、そんな顔で尽くしてたの?」
「そりゃ奥さんだし。元夫とは中学のときからつきあってたし」
「うーん強い」
「何がだよ」

 チカコは思わず吹き出して笑い、テーブル越しに手を伸ばして小太郎の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
 その店で自家焙煎のコーヒー豆を買い、またそっと指先を絡めて散策し、駐車場の料金を気にしながら車に戻った。
 帰路のドライブがはじまる。
 FMラジオは洋楽チャートをやっている。

 小太郎は会社の愚痴を言い弱音を吐いた。いつものように。
 チカコは娘のゆりこに新しいカレピが出来たらしいという話をした。これもまたいつものように。

 それから最後はやっぱりいつものように、優しかったおばあちゃんの思い出話になった。
 小学生の頃、顔を合わせるたびにケンカをしていたチカコと小太郎を仲裁して甘いカレーを食べさせてくれた。あの不味いカレーが今でも恋しい。おばあちゃんは料理がヘタクソだった。

「いつも思うんだけど、おれとチカちゃんが特にあてもなくだらだらとトークをしたら最後は必ずドラえもんのおばあちゃんの思い出回みたいな話になるよね」
「共通の話題だから仕方ない」

 ああ。
 来る。
 いよいよ不正解がくる。
 その先はきっと致命傷だ。
 チカコはそっとシートベルトの端を握って身構えた。

「そういう話の後ってさ、……そういう話の後って、正直、愛してるって言いにくい。というか、言いにくいというか、言うまでもなくおれは愛してるんだけど。好きだ。チカちゃん。愛してる」

 どんなに気まずい空気が流れても、それでもふたりが帰る家はひとつ。
 この気まずさがなぜか笑える。

「あたしも愛してるよ」
「はいダウト」

 気づけば窓の外は海沿いの夕暮れだった。
 ハワイのようだとチカコは思った。

「好きは好きなんだけどね」
「それは知ってる」

 ずいぶんと間を置いてから小太郎が「何なんだよこれ」と呟き、情けない顔で笑った。

「ああ、もう、間違えた。今じゃなかった。今言うんじゃなかった」

「そうだよね。今日のタイミングじゃなかったよね」
「チカちゃん今の忘れて。おれにはおれの段取りがあるから、そのうち改めてちゃんとしたやつで真面目にやり直すから。ごめん」

 バーカ。
 チカコはチカコでそっと笑う。わかっているのだ。きっと小太郎はもう二度と愛してるとは言わない。愛情の確認はたった今、ふたりにとっての不正解リストに入った。次に口にしたら、そのときはもう一緒に暮らせない。

「今夜どうする? 外食しようよ」

 気を取り直してチカコが誘えば、

「回らない寿司に行こう。やすさんのお店、今夜はドタキャン待ちでいけるんじゃないかな」

 小太郎もあっけらかんと頷き、ハンドルのリモコンを操作して馴染みの寿司屋に探りの電話を入れている。
 ニ万円のお任せコースしか出さない高級店で数週間前からの予約必至だが、そうなると当日の土壇場キャンセルも多い。そのタイミングを狙えば「待ってました今からどうぞ」と入れてもらえるのだ。

「やったあ。それじゃいつもの時間に」

 運良くキャンセルの横捕りに成功して通話を切った小太郎が、チカコにサムズアップしてみせる。
 ははーんこういうタイプのお詫びなのだなと気づいてチカコはまたも苦笑する。
 これはデートの最中でもうひとつの恋の呼び出しに応じてしまったお詫びかな、それとも、そのせいで焦って愛を告げるタイミングを誤ったお詫びかな。

「まあいいや。おしゅしだいしゅき」
「おすしなだけに?」
「どうしてよ。謎を掛けてもないし韻を踏んでもないし」

 美味い鮨に日本酒を合わせれば、また大正解のふたりに戻れる。
 そしてすべてが上手くいく、いくはずだ、そうでなければ困るのだ。こうして危ういふたりの致命傷の日々はだらしなく続く。



致命傷のふたり・了
#2につづく


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