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致命傷のふたり 第4話後編(最終回)

よろしければ第1話からどうぞ!

#4.ふたりのなつやすみ・後編


「なまんだぶつ、なまんだぶつ」

 なまんだーぶなまんだーぶなまんだーぶ、と何度も唱える坊主の良い声がセルフでフェイドアウトする。お経の最後はいつもこうだ。
 流行のアイドルソングの最後に似ていた。

「はい、おつかれぇい。お経おしまい!」

 仏壇に向かっていた中年の坊主が、いきなり声の調子を改めてくるりと向き直る。

「ふー」

 それを合図に小太郎は正座を崩した。
 チカコが仏間を出て、あらかじめ用意していた和菓子と冷たい麦茶と、紙幣入りの白封筒を盆に載せて恭しく差し出す。坊主は遠慮のそぶりもみせずにさっさとお布施を懐にしまい、ついでのように菓子を食べて茶を飲んだ。

「チカコが今日も美人すぎるからちょっとお経をサービスしといたけんな」
「過剰な読経サービスいらんわ。葬式仏教のそういうところどうなん」

「ねえもしかしていま何気に阿弥陀様をディスらなかった? ――でもさ、いうても小太郎もチカコもマジ偉いよ。おばあ譲りのお屋敷をふたりで守って盆の法要もちゃんとして庭の手入れも完璧だし。そういや小太郎おまえ車を買い替えたん? ここから職場まであの超高級国産車でどのくらいかかるの」

「高速をぶっとばすから朝も晩も一時間かからんよ」
「はー出た出た田舎セレブの高速通勤自慢、やーい雪で高速が閉鎖になったらぜったい死ぬやつゥー」

 お互いにくだけた口調で距離が近い。
 坊主はその名を山口という。剃髪はしていない。中途半端な地方都市において寺生まれの嫡男は宗派に関係なく幼少の頃から仇名はボウズだ。そういうわけで山口も幼い頃から坊主と呼ばれている。

 さすがに客商売で食っているだけあって坊主はやたらと愛想がいい。
 小太郎やチカコと年齢が近く、七三に分けた白髪が輝き、最近は書物の文字が読めなくなったと愚痴をいう。通販で買った話題の拡大鏡は使い心地最高だぞと小太郎に薦めていたのが春の彼岸法要の頃だった。
 坊主は今でも幼少時代の小太郎とチカコを思い出せる。

 もう四十年近く昔のことだ。

 あのときも夏だった。町いちばんの広いお屋敷で独居している美しいご婦人のもとに、男の子と女の子が預けられた。ふたりはご婦人の孫で従兄妹同士だという。小太郎は英国老舗のブランド子供服を着こなす裕福なお坊ちゃまで、チカコは幼稚なキャラクターがプリントされた安いシャツをジーパンに突っ込んだお転婆娘で、何もかもが正反対だった。そして毎日のように大喧嘩をしていた。坊主はこの町を取り仕切るガキ大将だったので、たまにはこの夏の闖入者たちの抗争に介入した。まさかそれから夏のたびにこの騒動が繰り広げられるとは思っていなかった。

 そして気が遠くなるほどの時が流れ、まさかのふたりがこのお屋敷で同居をしている。恋をしている。

 せっかくの盆なのだからもう少し会話に花を咲かせたい。
 というよりも次のデリバリー先に向かう時間までヒマを潰したい。
 そう思った坊主が「それでは久しぶりに仏教のありがたい話でもしてやるか」と顔を上げたらなぜか小太郎もチカコもそわそわしている。

「待って。なんかふたりとも、仕事を終えたら早よ帰れオーラがびんびんじゃね?」
「ごめん坊主。おれたちこれから避暑地に」

「おでかけ?」

 坊主の声が2オクターブ上がった。

「いやいや待て待て今夜は町の盆踊り大会やないか! その後の青年会の飲み会は? 小太郎も人数に入れちゃってるんですけど?」

「ごめんキャンセル。キャンセルっていうか、祭のあとに飲み会があるなんておれは最初から聞いてねえわ」
「田舎の常識! 去年と同じ今年も同じそして来年も続く永遠の苦行! ちゃんと町のイベントに参加してよ、この町でフットワーク軽くて体力と財力のあるアラフィフのおっさんは超貴重」
「おれ体力はあっても運動神経が切れてるし。去年は屋台テントを畳んだだけで右足関節靱帯損傷やもん」

「小太郎の怪我はいちいち一流アスリートの故障みたいで軽くイラつくわ、普通に鈍くさいおっさんのネンザと言えバカ。あと東京生まれの東京育ちのくせにその北部九州っぽい方言アクセントやめてくんない? 違和感なさすぎて逆に違和感あるわ」

 と、ひとしきり理不尽に怒り散らかした坊主だが、ふと見ればチカコが目を伏せているので仕方なくすぐに許した。

「……今回はいいけどさ、まあせいぜい大渋滞に揉まれて楽しんでこいや。ついでに車を当て逃げされてしまえ。ハイハイ、それでは現金も回収したしお坊さんは出て行きますよ」

 坊主はすっくと立ち上がった。
 その姿勢でチカコを見下ろし人差し指をつきつける。

「チカコはそのかわりあれやぞ、うちの可愛いワイフがこのたびめでたくヨガインストラクターの資格を取得して門徒会館でお教室をひらくから、おまえが生徒第一号や。第一期生入学キャンペーンで最初の半年はお月謝タダにしてやるけん」
「えっなんで、でもいいよ喜んで通う。ワイフによろしく言っといて」
「さすがチカコは何でも決断早い。そゆとこ好き」
「チカちゃんはヨガ向いてるよ、トシのわりに股関節がやわらかくてM字開脚なんかもうパッカーン」

 小太郎が無邪気に口を挟む。
 坊主がいきなりわあと叫んで小太郎の背中を蹴り上げ、一拍遅れてチカコの頬も羞恥で染まった。だが三人は学生ではなくいい年齢をした中年なのですぐに吹き出して下品に笑い合った。
 坊主の存在がなければこの町での社会生活はとっくに破綻していたかもしれないなとふたりは思う。

 ふたりで出かけるときは胸がどきどきする。
 チカコは少女めいたワンピースに麦わら帽子を被り、さらにネッカチーフを巻いてサングラスをかけた。

「フランスのマドモワゼルやん。ベルサイユに咲く一輪の紅い薔薇やん」

 左から右に流すような口調で小太郎が褒める。彼の車のトランクにスーツケースを放り込みながらチカコも真顔で応える。

「ぶっちゃけ自分でもそう思うわ」

 これから避暑地に出かける。
 チカコはその行き先を知らない。小太郎が任せろと言った。だからチカコは従うだけだ。

 決して対等ではない関係だ。
 チカコは小太郎に養われている。同居が決まったときに小太郎が「きみは親の介護や離婚のゴタゴタで年中無休だったんだからしばらく人生の休暇をとれよ」と冷徹な顔で告げた。
 バツイチで手に職のないチカコにとって小太郎の財力は頼もしかった。そして期待と予測通り、小太郎との生活は裕福で愉しく健やかだ。彼がふたりぶんの生活費を預けてくれるのもありがたい。信頼されている。すでに遺言を書いたというのはいつもの戯れ言だろうが、その言葉が現実味を帯びて聞こえるほど心を委ねられている。

 衣食住が足りているから心が寛く陽気になれるのだ。

 おかげでチカコの心は癒えた。
 近所の若い母親たちから子供自慢をされても、親戚連中が遠のいても、そのたびに心は傷ついても折れはしない。小太郎のおかげだ。正確に言えば、小太郎が一途に捧げてくれる愛情のおかげだ。

 けれどカウンセリングは終わった。
 チカコの長い休暇は終わった。

 社会復帰の時期だ。自立の季節だ。最近になってチカコが求人情報を読みあさっていることを小太郎は知らない。

「あたしがお洒落するのはコタと出かけるときだけよ」
「素直に嬉しいけど」

 けど、と言いかけてその先の言葉を小太郎は苦笑で曖昧に逃がす。小太郎が堪えてくれてチカコは助かった。
 車は高原の別荘地を目指している。

「着くのは遅い時間になる。涼しくて満天の星が見えるよ」

 ドライブの空が黄昏れる頃、小太郎は自慢げに目的の地名を告げた。
 実は半年前から高級避暑地のコテージを予約してたんだと男の子の顔で自慢した。チカコはその地名が何処の県なのかさえわからない。行ったこともなくテレビで見たこともなく、そして興味もない。

「温泉露天風呂がついてるんだって。檜の。それで、すぐ傍を小川が流れててマイナスイオンみたいなやつがすごいらしい。とにかくすごい」
「コタの語彙ふわふわやん」

 チカコはサングラスを外し、ハンドルを握る小太郎の横顔を眺めた。
 きっとはじめからこのつもりで長い夏休みを取ったのだろう。
 そしてもちろん彼には明確な目的がある。おそらくコテージを予約したのと同じ頃に注文したのであろう品が、そのポケットに入っている。実は宝石店が注文確認のためによこした連絡がなぜか小太郎のスマホではなく自宅の固定電話にかかってチカコが受けてしまった。連絡先のミスに気づいた宝石店から土下座せんばかりに謝られ、仕方なく、何も聞かなかったふりをしている。
 おかげで心構えの時間を得たのは幸運だったが、自分の本心と対決しすぎて混乱するばかりの日々だった。
 精神的に自立して少しでも小太郎にふさわしい伴侶になりたいと願う自分と、このまま小太郎に依存して寄生して死ぬまで気楽に暮らしたい自分がいる。

 陽が沈み、車は山道にさしかかる。

「コタ」
「なーにー」
「あたし、もうカウンセリングも終わったし、そろそろちゃんと外に出て働くよ。アルバイトかパート。この歳だから正社員ってわけにはいかないけど家の外に出たい。できることをやりたいの」

 運転しながら顔を動かすわけにはいかないので、小太郎はチカコの表情を窺えない。微かに揺れる訴えを愛おしく聞いた。
 初めての外泊許可を父親に懇願する女の子のような声だ。
 いつの間に、愛する女にそんな重苦しい遠慮をさせるようになっていたのだろう。彼女が懇願し自分が許可する関係になっていたのだろう。

 ――それはおそらく最初から。

「おれのせいだよね」

 小太郎は心に弾みをつけるように、指先で軽くハンドルを叩いた。

「おれはきみのためを思って、しばらくは人生の休暇をとれよなんて言っちゃった。だけど、もしかしたらきみにとっての最善ではなかったかもしれないとたまに後悔してた。一緒に暮らしはじめたばかりの頃のおれはきみに対して傲慢だった。軽く扱ってた。ごめん。それでもここ最近は改善されたと自負してるんだ」
「……」
「チカちゃんどしたん」
「あたし、まだ外で働いちゃ駄目だって言われるかと思った。怒られるかと思った」
「怒りゃしないよ。むしろハレルヤやん」
「ありがと。あたしもコタのこと見くびってた。元夫みたいに、」

 チカコは言葉に詰まって窓を開けた。
 野生の風を吸った。
 車で走れば走るほど肌で感じる気温が下がっていく。

「それでチカちゃん、実は渡したい指輪があるんだけど何だと思う?」
「ん? 何て?」
「間違えた。渡したいものがあるんだけど何だと思う?」
「だから指輪でしょうが」
「言い直してるんだからノリ合わせて。大人のマナーやん」
「ふふ。ばあか」

 チカコは密やかに笑う。

 いいかげんに入籍しなさいと叱る親戚たちの声が聞こえる。
 子のない高齢カップルを嘲るママ友マウント軍団の高笑いが聞こえる。
 おまえたちは遠回りしすぎたんだよと坊主の呆れ声が聞こえる。
 病めるときも健やかなるときも永遠に愛しますと祭壇で誓った元夫の甘い声が聞こえる。深夜に響きわたった娘の産声が聞こえる。ふたりを連れ去った才色兼備の若い女の声が聞こえる。
 これからはもっと自分を幸せにしてあげましょうよと紋切り口調で励ましてくれたカウンセラーの声が聞こえる。
 
 曲がりくねった山道を抜けるといきなり高原がひらけた。
 小太郎が車を停めて飛び降りる。助手席側にまわってドアを開け、チカコの手をとって恭しく降ろした。

「ほら、天の川!」

 闇夜にぎらぎらと輝く星の群れだ。
 包まれそうだ。足下をすくわれそうだ。美しすぎるのが怖くて震えた。怖がる必要なんてなかった。そうだあたしはずっとひとりで勝手に怖がっているんだ。こんなに世界は美しいのに。こんなに好きなのに。チカコは避暑地の星空を仰いだまま少し泣いた。幸福と感激の涙ばかりではなかった。

 愛情を確認するのは不正解だと思っていた。
 次に口にしたならもう一緒には暮らせないと確信していた。実際の今、どうだろう。チカコは片手で頭をかき回す。

「コタごめんね。指輪は受け取れないよ」
「聞きたくない」
「あたしはずっと、ずっと、今のままがいい」
「さてはマリッジブルーだな?」
「あたしの話ちゃんと聞いてた?」
「聞きたくないから聞いてない」
「聞いてよ」
「とりあえず指輪のデザインを見てから決めても遅くないだろ」
「見るだけだよ。もったいないから返品するか売却して旅行にでも行こう」
「ダイヤモンドは永遠の輝きやぞ。見ればぜったい気に入るから。自信ある」

「だけど、それでもしもダイヤモンドのカラット数に目がくらんで心が揺れたらさ、それはそれで、あたしってものすごく即物的で卑怯なバカ女じゃない?」

 チカコが言えば小太郎が笑う。

「それで何か不都合あるわけ? おれはないよ。チカちゃんは?」

 ふたりの頭上では真夏の流れ星がぽろぽろと堕ちている。

「あたしも……ない」

 なぜならもうふたりの青春は残り少ない。
 迷う時間も駆け引きの愉楽も残されていない。もっと迷うべきだ。もっと互いを試すべきだ。わかっている。でもこうするしかない。こうしたい。ああしろこうしろと外野がふたりに口を出すのも当然だ、そうであらば、そう、こうしなければならない。

「あたしはずっとコタと一緒だよ」
「おれはもう遺書も書いてるって言っただろう」
「それ本当だったの? やだわあ引くわあ」

 それがどんなに素敵な形であっても、どれだけ幸せだったとしても、結ばれるのが遅すぎた運命の恋は残酷だ。
 これからもずっと続く致命傷の残酷が、こんなにも楽しくて柔らかくて優しい。


ふたりのなつやすみ・了

***
致命傷のふたり・完




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