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致命傷のふたり 第3話(全5回)

よろしければ第1話からどうぞ!

#3.次のカウンセリングが最後だといいのに


 スマホが鳴る。
 デフォルト設定の愉快なマリンバが響く。

 庭に出て植木に水を撒いていたチカコがその音に気づいたのは奇跡だった。微かに響く着信に気づいて水道の蛇口を閉め、サンルームの前を横切って縁側から飛び込み、食卓に放置していたスマホを掴むと画面には小太郎の名前が浮かんでいる。見慣れたはずの名前なのにときめいてしまう。

「はい」

 通話ボタンを押して受ければそれを待たずに小太郎の声がした。

『晩ごはんいらない』

「えっ待って、」

 たった一言の冷静な業務連絡で切れた。
 全力疾走したから一気に疲れた。チカコは呻く。肩を落として荒い深呼吸を繰り返しているうちに怒りがこみ上げてきた。

「無礼者が」

 小太郎は、もしもし、を言わない。
 そして名乗らない。
 もしもしおれです、の一言がない。
 チカコに電話をかけたのだからチカコが出るのは当然なのだ。だから挨拶の必要はない。無駄だ。と、それが小太郎の言い分だった。いやいや親しき仲にも礼儀ありという言葉もあるし、否、そもそも我々はさほど親しき仲でもない、否、親しくないはずがない、だったらなおさら日常の会話、たとえ電話でも大事じゃないですかねえ?
 ねえ?
 と、スマホの黒い画面に問いかけて再びその場に放置する。チカコは家の中でスマホを持ち歩かない。いつも何処かに置き去りにしている。

「いやべつに今さらコタのお行儀なんてどうでもいいけどさ、」

 縁側でひっくり返っていたサンダルを履き直し、チカコは夕暮れの庭に出て水撒き用のホースを片付ける。
 やたらとファンシーな植物を植えたがるのは小太郎の謎性癖のひとつだった。
 中年のおっさんがガーデニングに目覚めるのは悪くない。性差のイメージで差別するのはよろしくない。だが植えるだけ植えて、あとは「お花は可愛いなあ」とチョコチョコ手入れするだけだ。さらにホームセンターに行くたび花の苗を抱えて帰ってくる。日常の中で水を撒くのはチカコの役目だった。頼まれもしないのに、命じられたわけでもないのに。
 西の茜空がどんよりと曇って見えた。
 三日前から続いた夏の快晴で油断していたが、もしかすると今夜は雨なのか。
 洗車をすると雨が降る、花に水をやると雨が降る。

「むかつくわぁ」

 ぼんやりと腹が減った。
 それじゃ今夜は冷凍うどんでいいや。
 そう決めてチカコは腰を叩いた。こんなときのために冷凍庫にはツルツルシコシコの冷凍讃岐うどんがスタンバイしている。

 やたらとファンシーなお手軽レトルト食品を揃えたがるのはチカコの謎性癖のひとつだった。
 中年のおばさんがレトルト品に目覚めるのは悪くない。性差のイメージで差別するのはよろしくない。だが買うだけ買って、あとは「そのうちレンチンして食べよう」と思うだけで溜め込む一方だ。普段はどうせヒマだからとつい時間を掛けて料理をしてしまう。日常の中でレトルトを消費するのは小太郎の役目だった。頼まれもしないのに、命じられたわけでもないのに。

 冷凍讃岐うどん、最高。
 これこれ、こういうやつでいいんだよ!

 適当に出汁を作り、関西風の素うどんに卵を落とし、冷蔵庫の中でくすぶっていたちくわも投入した。季節はもう夏だがやはりうどんは温いやつがいい。じゃっかんもの足りねえなと脾胃が訴えたが、そもそも夕餉というのは少量が適正なのだと自分に言い聞かせた。テレビの健康番組でもそう言っていた。歳をとったら夕餉をとり過ぎてはいけない。
 食べている途中でふと壁のカレンダーを見る。
 来週の水曜は久しぶりのカウンセリングだ。

「めんどくせえ」

 思わず口から独り言が出た。
 だがサボるわけにはいかない。後で小太郎に説教される。

「……もう大丈夫なんだけどなあ」

 数年前を底とするなら今はもう全快に近いと本人は思っている。
 当時のチカコは実母を介護するために家庭を離れ別居していた。その間に夫は新しい恋をした。情熱的な恋だった。相手は美しく有能で気立てのよい女部下だった。上司の妻が家庭を捨てて実家に帰ったと聞き、同情して家事を手伝った。何度も家に通ううち当然のように深い仲になった。若くお洒落な彼女は女子高生だった娘のゆりこにも懐かれ、新しいママになってと請われて勝算を得たのだろう。
 彼女と会ったのは最初で最後の一度きりだ。

 ――『あなたのご主人と将来を考えた真剣な交際をしています』

 若い彼女は潔く打ち明け、正々堂々と胸を張った。

 ――『私たちは結婚します。私は彼の妻として、そしてゆりこちゃんの母として暖かい家庭を築いてみせます。皆が応援してくれていますし、必要なのはあなたのサインだけ。これはお互いの今後の人生を善くするための提言です』……

 ちょうど同じ頃に実母が逝った。
 介護の必要がなくなった。
 母の遺言どおりに相続もろもろの手続きが完了したらチカコには帰る家がなくなってしまう。さらに不幸は続き、親戚に迷惑はかけぬと長らく施設で暮らしていた「福岡のおばあちゃん」が大往生を遂げた。最期を看取ったのはチカコと、東京から駆けつけた小太郎だった。ふたりはそこで再会した。
 おばあちゃんが遺した家に住もうとチカコは決め、葬儀の席でそう告げた。

 ところが小太郎が待ったをかけた。
 彼もその屋敷が欲しいというのだ。近々東京から九州支社に転勤することになった、おばあちゃんの家に住んでここで定年を迎えた後は晴耕雨読の田舎暮らしをするのだと言い張る。ふたりは互いに譲らず揉めに揉めたはずなのに、なぜか惚れあってしまった。

 チカコが一方的に離婚を突きつけられて窮状にあることを知った小太郎は、学生時代のコネを使い、先輩の兄貴の配偶者の後輩の婚約者の幼馴染みだという有能な離婚弁護士を紹介してくれた。おかげでチカコは最後の話し合いの日から一度も元夫と憎き愛人の顔を見ないまま離婚した。
 有能な不倫女は有能な良妻賢母にステージを上げ、現在は宣言通りに暖かな優しい家庭を築いている。これは継母と仲良く暮らしているゆりこから報告を聞いた。チカコが母の遺産を削ってささやかな額の小遣いを渡している間はゆりこも気軽に会ってくれる。

 だからチカコはすべてを水に流した。
 そのつもりだった。
 それなのに小太郎は、チカコにカウンセリングをすすめた。

 できるだけ早く働きに出て生活費を負担したいというチカコに、金銭の心配は一切無用と言い切り、カウンセリングに通わなきゃ同居は解消するよと脅した。
 どうせカウンセラーに追い返されるだろうと思いながら予約どおりの時間に出掛けたら、意外にも真摯に対応された。まずは一年二年とゆっくり様子を見てから次のステップに移ってみましょうよと提案され、しばらくは今のご主人様に甘えてみてはと優しく諭された。ご主人様って何だ、コタのことか。それならまるであたしは動物愛護家に拾われた野良猫だな。チカコはそっと自虐してふわふわと愛想笑いした。
 今はどうだろう。チカコは息を吐く。
 次のカウンセリングが最後になればいいのに。


 
 鍋と器を片付け、ぼんやりと洗い物をして、長い夜を過ごした。
 ネットの動画配信で中途半端に古いラブコメ映画を観て、ふと思い立って古新聞を片付け、やりかけで放置していた刺繍の続きにとりかかり、顔を上げたらもう午前零時を過ぎている。

 外は静かな夏夜の雨だ。
 小太郎は帰るのだろうか帰らないのだろうか。

 晩飯はいらぬと告げたのだから急に呼ばれた酒宴だろう。ならば車で帰宅はできない。繁華街のビジネスホテルに飛び込むか、あまり想像はしたくないが優しい誰かと優しい夜を過ごすのか。本人はとうに枯れてるよと笑っているが、あれは愛に飢えた肉食女の欲望を刺激するタイプで魔性のおっさんだ。例の三十六歳(当時)は結婚して潔く去った。だが他にも彼に熱を上げている人間がいるはずだ。
 けれどたった一言の電話でも連絡してくれるだけましだ。優しい。

 元夫は予告なく朝帰りしていた。それでも甘い新婚時代はせっかく用意した夕飯が無駄になると文句を言った。そしたら、べつに君に家事を押しつけているわけじゃないから気を遣わなくていい、夫に尽くしていると思い込むのは勝手だが感謝を強制するのはやめてくれと言われた。むかついた。拗ねて家事をボイコットしたら元夫はホテルに逃げた。結局チカコが泣きながら詫びて収束したが何の解決にもならなかった。なぜあのとき泣いて謝ってしまったのだろう、傷ついたのは自分だったはずなのに。
 ――きっとコタもいつかあたしを捨てて若い誰かのところに行く。
 チカコは頭を振った。
 戸締まりして寝よう、と立ち上がったところでピンポンピンポンと玄関のチャイムが鳴った。

 チカコはびくりと身を竦める。

 最初に頭に浮かんだのは娘のゆりこだった。もしかすると継母と喧嘩して真夜中にタクシーを飛ばしてきたのかもしれない。継母に虐められたのもうヤダこれからはママと暮らす……そう言って泣きながら胸に飛び込んできたらどう扱えばいいだろう、なんてことをわずか数秒のうちに考えながらインターホンのモニターを覗くと、深夜の暗闇に浮かんでいたのは小太郎の顔だった。

『チカちゃんがまだ起きててよかった! おれとしたことが家の鍵を忘れて出かけてたんだよ、ごめん開けて、真夜中だし雨も降ってるし!』

 チカコは鼻をつまんで裏声を出す。

「オ客様はチカチャンさんノご都合デお取り次ぎデキマセン」

『自分で勝手にイメージしたAIアシスタントの物真似なんかしてる場合じゃありませんよ。遅い時間なんだからふざけてないで早く開けなさい』
「急に父親っぽいテイストの敬語むかつくわぁ」

 チカコは通話を切って廊下を走り玄関に向かった。
 扉を開けると小太郎がいた。
 これはこれは端正な女誑しのイケメンおじさまだこと。
 今朝この家を出たときと同じスーツ。きっちりと手入れしていたはずの髪は無造作に乱れている。仕事用の眼鏡。ほんの少しの疲労が浮かんでいる目尻。肌色が薄いせいかたまに首筋のほくろがぽつんと浮いて見える。泥酔の様子はみえない。酒の匂いはしない。

「コタ、帰ってきたの?」
「普通に帰ってくるけど。何なんだ意味わからん。あー風呂入りたい。どいて邪魔」

 チカコを押しのけて小太郎が廊下を歩く。チカコは「ちょっと」と呼び止め小太郎の腕を掴んだ。

「晩ご飯いらないって電話で言ったよね?」

 小太郎は振り返る。

「そのまんまの意味。やらかした部下のケツを持って面倒くさい仕事をしてたら別の部下が差し入れしてくれたからデスクでささっと食べたんよ。内臓に悪いから夕方四時以降は間食禁止で晩飯は一日一回までってチカちゃんがおれに約束させたやん」
「優しくて可愛くて上司に夢中の有能な部下は何を買ってきてくれたの」
「映画に出てくるみたいな白い箱入りの中華料理」
「全米を震撼させてる連続猟奇殺人犯の行方を追うブロマンスな捜査官コンビが愚痴を言いながら丸一日ぶりに貪る捜査メシやん。まーたコタばっかり美味しいもの食べて」
「焼きビーフン味の焼きそばパスタみたいなやつが普通にマズかった。えっ何なのおれが帰らないと思ったの? 酒を飲んでホテルに泊まるなら初めからそう言うし」
「そもそもコタの電話は無礼すぎるんよ。何あれ。俳句より短い」
「無駄が無くてよかろうもん」
「狼煙よりはね」
「それじゃ今度から残業で遅くなるときは万葉集っぽい情感で防人の歌みたいな電話をかけるからそれでいいだろう、気をつける」
「どんなふうに。今ここで万葉集っぽく言うてみて」
「やけに厳しめに絡んでくるやん。──〝わが妻はいたく私を想ってくれているようだ、飲む水にもその姿が見えて〟」
「うまいことボケもせず本当に万葉集の一首をわかりやすいように口語訳でさらっと口ずさみやがって。あーやだ文系おっさんの教養アピールやだやだ大嫌い!」

 いつまでも立ち話をしているわけにもいかない。チカコは唇をとがらせ地団駄を踏んでいる。
 小太郎は右腕を軽く揺り上げた。

「やだやだっていうんだったらそろそろおれの手を離して。おれは可及的速やかに入浴して寝るから」

 おれはあしたも仕事なんだからご静粛にね、と唇に指を当てて小声で付け加えチカコを振りほどこうとしたら、いきなりぐいと引き寄せられた。
 チカコは小太郎の背を抱いた。廊下の壁に押しつけた。そしてさらに力を込めて抱いた。

「あのね。今夜はなんだか不思議な気分でさみしかったの。正直に言う。めちゃめちゃさみしくて、いやなことばっかり思い出してた」

 小太郎は片手で眼鏡を外した。

「チカちゃんキスしようか」
「しよう」

 それからふたりは長い接吻をした。

「ようやくこれが初めてのキスだよ」
「うん」

 少女漫画のハッピーエンドのキスではなく、これからはじめる交尾の前戯としてのキスをしてしまった。ここで留まるのは大人の判断だ。けれど進むのも大人の判断だ。

「あたしも一緒にお風呂に入るよ。コタは絶望的な運動音痴のくせに最近はあたしのために筋トレ頑張ってるでしょ、腹筋の育ち具合を見てあげる」
「言うてくれるやん。舐め回したくなるような腹筋やぞ」

 しっとりと潤んだ眸で見上げるチカコの頬に小太郎は触れる。
 この女の中心には今でも元夫への思慕があって、元夫を奪った女への闘争心がある。永遠に消えない炎がある。それがたまに暴発してこんな顔になる。男の本性はいつだって男だ。だが女の本性はいつも女だとは限らない。女という生物は度々こうして自分が雌であることを確認しなければならないのだろう。悔しいことに、切ないことに、だからこそチカコは美しく可愛らしかった。

「もっかいキスして」
「何度でもするよ」

 思えば幼い頃、小太郎は初めてこの家で「イトコの可愛いチカちゃん」に出会ったその瞬間から、この娘はいつかおれのものになる運命なのだとわかっていた。初恋というよりも宿命の剣を引き抜いた英雄王の気分だった。やがて疎遠になって気が遠くなるほどの年月のなかで忘れていたが、再会して思い出した。魂で思い出した。

 ずっと好きだった。
 これからもずっと愛してる。

 ――という恥ずかしい話を去年のハワイ旅行でこんこんと語り聞かせて説得したのにチカコは唇のひとつも許してくれなかった。南国の花で飾った大きなバスタブも真っ白なシーツのベッドも無駄に終わったのだ。あのときの失望を思い出すと今でも小太郎は泣けてくる。
 それがこんなあっけない日常の真夜中、突然に恋は動く。

「チカちゃん、次のカウンセリングいつ?」
「来週の水曜日」
「おれも会社を休んでつきあう。――これが最後になればいいね」

 などと言いながら小太郎はチカコの首筋を唇で愛撫した。

「やっ」
「何だよその甘い声たまんない。いやだった? おれはもっと」
「待って」

 焦ったチカコが慌ててシャツを脱ぎはじめる。

「チカちゃんそこでストリップはやめて、もっと情趣を大事にして」

 喋るのもじゃれるのもキスの邪魔でもどかしい。
 ふたりはもつれ合ったまま行き先を風呂場から小太郎の寝室に変更する。小太郎が「どっこいしょ」と情けない掛け声ひとつでチカコを抱き上げる。小太郎の汗の匂いを吸いながらチカコが「情趣!」と笑う。
 ついにこのタイミングが大正解、そして言葉は無力だ。



次のカウンセリングが最後だといいのに・了
#4につづく



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