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死の香りは声を奪う

こんばんは、虚無・ラ・ガエリです。

『ドキドキ文芸部』ってみなさんご存知ですか。

そこにサヨリって子がでてくるんです。

彼女は、主人公を恋慕するのです。だから当然、他の女の子のルートに進むと彼女は悲しみにくれる一方だ。

でも、

彼を恋慕するこの自分が嫌いだから、主人公と一緒にもなれない。主人公に迷惑をかけたくない。大好きだから彼の前から消え去りたい。彼に心底愛されても、腕のぬくもりが柔らかい分だけ、心底苦しい。他の子と幸せになって、自分を忘れてほしいとさえ思う。

彼女は、サヨリは、抱きしめても、突き放しても、自殺する。サヨリはどう主人公が立ち振る舞っても死しか与えられない。こちらが動けば動くほど、否ただ存在するだけで、彼女は抗いがたい希死念慮の重力に身を潰されてしまう。

自殺にせよ、ただ人がそれ以外の仕方で死を迎えるにせよ、わたしはなにも言えない。こんなネット空間では好き放題考え事に耽ることはできても、ここではいかに雄弁であっても、わたしはなにも言えない。言いたくない。

突然やってくる死の匂いに、閉じることがない鼻は敏感に反応する。でも閉じることをしなかった口は、閉じてしまう。


いつものようにわたしは家の門を開け、鍵を解き、ただでさえ地面に降りたがるサイズの合ってないズボンを脱ぐ準備をしながら、「ただいまのあいさつ」とともに「ただいまのコミュニケーション」を台所の母に持ちかけようとした。

「かあさん、ほんと腹立つことがあってさぁ」-アマゾンから本が届かず、毎回不在届をポストに入れてくるからだ。ただそれだけだ。不在届を読了するのに5分もかからないし、こんなものでは代わりにならないから、配達員さんはセンスがないと思っていたのだ。

かあさんの顔の輪郭がいつもの場所からブレていた。

度重なる仕事が彼女の顔を変えてしまった。「ん、なんか顔が疲れてない?」-ただ一瞬だけ、そうだと思っていた。

「え、何に腹が立ってるの?」そう聞き返すかあさんの顔は、さっきとちがった印象を湛えていた。泣いていた。


彼女の母、わたしのばあちゃんが手術するみたいだった。

ばあちゃんの股関節は、誰も知らない間に折れて外れてしまっていた。

誰も、というのは、本人もということだ。

声にもならない痛みだろうと経験しなくたって分かるのに。それでも今朝迎えた限界に達するまでは、ほんとうに誰も知らなかった。

ばあちゃんの痴呆が進行していたのも、誰も知らなかった。そして身体の痛みさえ聞き取れないほどそれが進んでいたことも、誰も知らなかった。

ばあちゃんは股関節にボルトを埋め込むみたいだ。ばあちゃんはもともと脳出血による後遺症で半身不随も合わさって、もう、立ち上がることさえできなくなるらしい。ボルトは、ばあちゃんの股関節を固定してくれるけど、ばあちゃん自身さえベッドに固定してしまう。

ばあちゃんはもう動けない、痴呆はどうなるか分からない。

「死の匂い」が鼻を突いた気がした。

わたしは母に、「ふうん」とか、「そっか」とか、相づちしか打てなかった。それ以外、何も言えなかった。わたしの言わんとする「意志」は射貫かれ、そこには「死」の一文字だけが立ち込めた。

一体、何を言えばいいというのだろう。何を思えばいいのだろうか。

「哀しいね」?-そうなのか。ほんとうか。哀しいってなんだ。なんでこの言葉なんだ。だって、いつか必ずこうなるって分かっていたのに。不意の事態ではなかったはずだ。だれもが知っていることじゃないか。断じてこれではない。

「仕方ないよ」?-断じてちがう。だれもが知っていることだから、かあさんには響かない。仕方ないことが分からないから涙が流れるのではなく、仕方ないことが分かるから涙が流れないというわけでもないのだ。

綾波みたいに、どんな顔をして、どんな言葉をあげたらいいのか分からなかった。わたしは、かあさんの涙の理由がまったく分からなかったから、どんな言葉も声音も纏わせる勇気を持てなかった。というか、言ってはいけない気さえした。だって彼女を「納得」させることは、「暴力」だと思ったから。

納得は、死やその匂いを忘れさせてしまう。死の無根拠と必然を、理由や御託で固めてしまうとき、その死は物語になる。神聖な何かになってしまう。


涙はただ流れる。「なぜ」なんて全く無いまま、ただ流れる。

それでも。

わたしはそれでも、涙の「理由」を尋ねた。

かあさんはそれでも、ただ「哀しい」「かわいそう」と言った。

わたしはそれでも、ばあちゃんの死をきっと「哀しい」と言うだろう。

かあさんはそれでも、ばあちゃんの墓の前できっと手を合わせるだろう。

わたしはそれでも、こうして声にならない経験を文字にするだろう。


だから。

わたしはだから、かあさんの番が来たら、また何も言えないだろう。

そして「なぜ」無しに、泣き、母がいつかするように、手を合わせるだろう。

「なぜ」無しに、「なに」無しに、ただ語ることがわたしたちの弔いなのだろうか。その語りは慟哭と区別がつかない。わたしはそう思うのだ。



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