ダイアログインタビュー ~市井の人~ 若松真哉さん「愚直に人と関わる」3

――こっちに戻ってくるまでは、どこに住んでたんですか?

若松 これ「地元あるある」だと思うんですけど(笑)。原町高校を出て、東京の大学に進学したくて、東京の駒澤大学に進学したんですね。そしたら、東京の空気が合ったんでしょうね。学生の間だけ東京にいるって人が多い中、向こうの友達もガッチリ増えて、そのまま東京に就職しようかと。地元に帰ろうというヴィジョンは立てずに、東京に骨を埋めようと思って就職しました。だから「どうせ実家に帰るんだ」みたいな気持ちは一切無く、積極的に仕事に取り組みましたね。年間休日三八日、休みなく働いてました(苦笑)。

――休み少ないっすねぇ。どんな仕事だったんですか?

若松 業種は紳士アパレルです。二年間店頭で販売と営業サブをやって、その後店舗営業っつって、店舗スタッフをまとめて売り上げを管轄する百貨店の店舗営業というポジションに就きました。「今月売れてんの? 売上行きそう? 」「あ~売上行かなかった~また会議で怒られるなぁ。」みたいな感じで(笑)。偉くはないけど中管理職的なポジションでしたね。「お前のポジションでグループの数字が決まるんだぞ!(要は数字が悪かった) 」という無言のプレッシャーを、毎週月曜ごとに感じるというね(苦笑)。営業になる前の、百貨店の店頭スタッフの頃の方が楽しかったな。店頭スタッフの頃は酒飲んで愚痴吐けましたし(笑)。営業する側になると愚痴吐けなくなりますから。

――確かに愚痴は吐けなくなりますね。

若松 それを二五歳から二八歳のころまでやってました。本来はその役職って、二十代後半の人間が就くポジションじゃ無かったんですよ。それが、私が二四歳の時に大々的にリストラがあって、その世代の人がバッと居なくなっちゃって、店頭スタッフから私が引き上げられちゃったんです。んで、教えてくれる先輩もいないまま、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング。実際の業務を通じて行う職場内トレーニングの事)ですよ。というか、OJTの名を借りたぶっつけ本番(苦笑)。

――確かに一般的には、そういう管理職って三十代以上の人が就くイメージですよね。

若松 そうなんです。しかも給料は平社員と変わらず(苦笑)相変わらず貧乏生活で。そして店頭スタッフの話(酒席で)を聞くため、給料のほとんどは酒代に消える……と(苦笑)。

――若いスタッフも多かったんじゃないですか?

若松 それがですね、私がいた紳士アパレルブランドは、一九八〇年代に一世を風靡したブランドだった事もあって、店頭スタッフの平均年齢が四二~四三歳の方が多かったんですね。

――年上……そりゃきついっすねぇ。

若松 私、二千年以降の入社で、会社も四~五年採用を控えていた後の、新規採用を復活させた頃の入社でしてね、年齢の近い先輩も少なかったし、バブル時代の景気が良かった頃の話を聞かされて育ちました。バブルの頃みたいな良い時代のノウハウって、マーケット自体が良いので、その人個人の百パーセントの成果とは言えないと思います。購買客がたくさんいる環境なわけですから。ただ、良い時のノウハウが身についていると、そうそうそのやり方を変える事も出来ない。その人たちと進んでいくためには一緒に酒飲んでコミュニケーションを取るのが最良の方法だと。結果的には教わる事の方がはるかに多かったと思います(笑)。

――(笑)でもその辺りって、この街の街づくりにも通じる部分かななんて思ったんですけど。

若松 身銭切って時間使って健康を害しますけどね(笑)。ただそれが、私のビジネスに直結してましたからね。冷静に考えてみると今は、自分の事業と街づくりの境界線がぼやけてる部分はありますね。でもそれって大事なことだと思います。

――そこで相当すり減らす思いをしながら働いて……。

若松 私、最初の二年間は百貨店の中の店舗スタッフを経験しまして。そこって売り上げ日本一の店舗だったんです。ただ、仕事の厳しさも日本一でしてね。そんな中で「成績を上げるには相当な気合がないとダメなのか! 」というものを学ばせて頂いたんです。で、伝える側に自分が立った時、そこで学んだ事を「たかだか二十代の若造の自分に出来た事なんだから、このやり方をみんなにやってもらえば自分のチームは成績を残せる!」と単純に思ったけど、そんな簡単には行くわけがない(苦笑)。そんな自分を受け入れてもらおうと思ったら、そこの人たちと同じ釜の飯を食って、一緒に酒も飲んで、たまの休みには会社の草野球に参加して……というところまでやって関係を作る必要があるんだなという事を身をもって知りました。

――営業って自分なりのスタイルがありますからね。

若松 そうした事って、俺も若かったし、なかなか受け入れられなかった。だからまずは酒を飲みに連れてってもらったんです。当時住んでいた家も職場から近かったですし。

――当時は仕事に一所懸命だったんですね。

若松 一所懸命でした。そこで突然、実家に帰ってくることになりまして。二千五年に親父に呼ばれたんです。「体が悪いから帰ってこい」ってね。「なんだ親父、働けねえのか? 」というわけで帰ってきたんです。実際は元気だったんですけど(笑)。冷静に考えてみれば、会社には自分の代わりになる人材はいるし。後輩も育ってましたしね。若い連中とは楽しくやれてましたよ。後輩にも本当に恵まれてました。

――そういう若い人たちとのやり取りで、一番気にしていたことって何でした?

若松 あ!もう単純です! 職場では私も若い奴らも目的は一緒ですから。ずっと同じフロアにいれば時間も同じ時間も共有しますし。お互いに考えてる事も分かってくるんですよ。「この場面、若松さんならこういう動きをするだろうな」とか「あ~今の彼の状況は、板挟みで辛いだろうな」とか。そんな時「ちょっと飲みにでも行こうか? 」なんて声をかけると「分かってくれますか! 」なんて具合になったり(笑)。阿吽の呼吸みたいなもんが出来てました(笑)。そんな中で僕も励まされましたしね。

――「状況を読む」とか「以心伝心」って感じですかね。

若松 ま~あまりにも過酷でしたから(苦笑)。それだけ関係は濃かったですね。

■ 若松さんの中には、このように「泥臭く地道に人間関係をつくっていく」事の重要性が強いのだ。そしてその感覚は、まさに経験によって得たものだ。その後に起こった震災で若松さんは、期せずしてその感覚を再認識させられる事となる。


――そういう環境にいると、人とのつながりの大切さみたいなものも感じるでしょうね。

若松 感じます!未だに当時の同僚と年賀状のやり取りもありますし。それに、こっちに帰って震災が起こった時、その会社の人たちから百何十件も注文が入って、買ってもらいましたもん。

――そんなに!

若松 いや~ちょっと信じられなかったですね。その時はその後直接会社に行きました。「せめて直にありがとうと言わなきゃ」と思って。そこで先輩方や当時の同僚と七~八年ぶりに会って、一緒に酒も飲んで……それから二週間後にNHKの十九時のニュースのトップで私が取り上げられて、それを見た皆がびっくりしたという(笑)。

――何で取り上げられたんですか?

若松 「復興デパートメント(前述した、ヤフージャパンが運営しているインターネット百貨店)」です。ちょうどその頃の話ですね。でもテレビに出た事で、心配してくれた皆さんに少しは恩返し出来たかなと思ったり。

戸田:それは二千十一年のいつ頃の事ですか?

若松:十二月の話です。「復興デパートメント」の立ち上げがその頃だったんです。「復興デパートメント」は、自分を揚がらせてくれたサイトでしたね。

――確かに一時期は相当取り上げてましたしね。

若松 ビジネスとしてはそれほどの効果は無かったかもしれませんけど……ウェブサイトからの収入だけで食っていけるとかいう事にはなりませんでしたし(笑)。でもあれでいろいろな方と知り合ったし。ヤフーさんにはお世話になりましたね。

――まぁ商売としては難しい部分もあったでしょうね。

若松 ただ、途中で辞めたりはしませんでした。今の復興デパートメントの中の自分のページを見ると、立ち上げ当初のまま更新されていないので、近々手を加えます。持続の為の補助金も支給が決まったので。

――お金の裏付けも大事ですよね。

若松 大事! 助成金の支給が採択されたら、きちんと段取りしてやらなきゃならないですし、その作業をする時は仕事を抑え目にしたりして工夫します。仕事だけじゃなく、商工会の活動なんかも。身体一つでやる事には限界がある。

■ ここで、東京時代に若松さんが学んだ「泥臭く地道に人間関係をつくっていく」事と、今の若松さんの取り組みが、私の中でつながったような気がした。そこで、率直な質問をぶつけてみた。

~続~

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