見出し画像

8×3=3×8? かけ算の順序

「8cmの三倍はいくらですか? こたえ __cm」

 学校のテストの問題です。
 Twitterで話題となりました。「3」×「8」と記入された答案用紙には赤いペンで×が入れられ「8」×「3」と訂正されていました。この問題の点数はゼロです。

 親御さんは「順番が違うくらいで×になるのか」と書かれていました。ごもっともなお気持ちかと思います。その気持ちに添うと先生は横暴に見えてきます。

 ここまでは普通の話です。

 問題はこのツイートに対してさらに数学者の方から以下のような意見が寄せられたことです。引用させて頂きます。

「整数は、掛け算の順序が全く関係ない可換群と呼ばれ、代数学では非常に重要な性質です。全てのカテゴリーが保有する性質ではありません」

 こういった教育はどうか?と疑問符を投げかけておられました。数学的な性質の理解を妨げる判断を下しているのではないか?というご指摘だと思います。なるほど、と頷ける点も確かにあります。

 この意見について是非を問うてみたいと思います。


1.国語の問題としての是非

 8「cm」の三「倍」と書かれていますが、これは極めて限定的な記述になっています。
 まず、基礎となる単位(掛けられる数)は 8cm で現実の対象物であることが分かります。したがって、こちらを倍にすればよいことが分かります。
 次に掛ける数、つまり基礎単位がいくつ必要かは 三倍 と指定されています 。したがって掛ける数は3です。
 これを素直に記述すると8×3となります。
 文章(数字)の構造上、(掛けられる数)×(掛ける数)となります。国語的には順序が決定されているのです。
 実際に文章にしてみれば分かります。
 8cmを三倍する(8cm×3)
 3倍を8cmする(3倍×8cm)
 文章的に後者はおかしいのです。
 後者は「読めない数式」となります。


2.過程の喪失

 数式は左から右に書くという性質があります。横書きの文章と同じです。これは左が過去、つまり発生点で右がその後の展開であるということを意味します。
 かけ算ではこの順序、つまり時系列を入れ替えても良い(結果が変わらない)という指摘だと思うのですが、ここで重要なのは数式は右から左には書けないということです。数式を右から左に読むことが自動的にできるのであれば、順序が変わっても問題はありませんが、それはできません。見た瞬間にかけ算の数を入れ替えた(どこでそれを判断できますか?)、じゃあそこは右から読もう、ということはできないのです。
 つまり数式は時間軸に支配された記述で、かけ算はこれを四次元的に超越できるわけですが、それは数値の世界の中だけの調和なので現実に落とし込む段階で矛盾が出てくるのです。※1
 なぜこうなるかというと、三次元世界での物事は時系列の中で因果関係を生じるようになっているからです。8cmがあるから3倍にすることができるわけですし、5倍にしても構わないのです。この逆は簡単には(間に何の作業もせずには)できません。
 こういった計算上の仮想的な進行による発生点及び経緯の消失は8×3という計算が必要になったのはそもそもなぜなのか?という問いに答えられません。また8とは何なのか?という問いにも答えられません。
 数学は自然を抽象化して加工したり編集することのできるようにしたものですが、導いたものを現実に適用する(書き戻す)ことはそのままではできません。時には不可能、もしくは現時点の人間には不可能に近い答えが導き出されることもあります。大抵そこにあるのは四次元軸の壁です。24cmの棒を取り、切って8cmに戻すというのは過程を時間逆行させているのです。※2

 ここで言いたいのは数学が万能ではない(あるいは学者さんが常に適切な言葉を発する訳ではない)ということです。
 あくまで仮想的で時間軸から切り離すことが可能なくらいに抽象化されているからできる事があり、かけ算はその特殊例の究極の一つだということです。要は取り扱い厳重注意の物件なのです。
 数学のエッセンスはむしろこの点にあります。
 良いことであれば誰でも言えるのですが、問題点や限界を認識しながら扱うことこそプロ中のプロにしかできません。

 なぜ過程が必要なのかは科学の世界に例を見ることができます。この考え方が無視されると科学は成立しないのです。科学を構築している思考は論理学で、論理学はさきほど述べた時系列の中で作られる因果関係によって成立するからです。
 推理物が好きな人なら、順序が逆にならないという前提があるから様々なトリックや推理が可能になっていることがお分かりでしょう。
 分かりやすく、考古学や地史学、歴史学が何をやっているのか考えるだけでもそれは明白でしょう。
 アメリカが月面探査で持ち帰った月の石を中国に贈りました。しかしこの石はなぜ贈られたのかというと、採取した際のデータ(場所、発見した時の状態などの記録)が失われていたからです。研究試料としての価値が全く無くなってしまっていたからなのです。
 美術品で言えば誰がいつ絵を描いた(作品を作った)のかが重要です。そこに巨額の価値が生まれます。
 さらに言えば私たちは段階的な積み重ねで社会人となっています。義務教育を飛ばして社会人になった人はそんなにいませんし、(何の裏もなく)新人で入社して次の日社長になった人がいたらかなりの例外だと思います。
 私たちの世界で「順番を変える(時系列を逆転させる)」という行為は大きな意味を持っています。


3.教育とは?

 逆順に記述した答案が×になったことが教育的に良いか悪いかという話ですが、悪いとする考え方があるのは分かりました。
 しかしながら本当にそうでしょうか?

 前述のように、回答者のお子さんはなぜ国語的に逆順のかけ算を答案に記入したのかが問題になると思います。なぜかと言えば明らかに不自然な事をしているので、そこには何か理由がある筈だからです。
 私が思うに、この子は九九の8×3が苦手なのだと思います。小さい数から覚えて行きますので、覚え立ては3×8の方が覚えやすいということでしょう。

 さて、ここで問題が二つ出て来ます。
 一つはこの子は覚えやすい順列と覚えにくい順列を持っているということ。
 もう一つは覚えやすい順列をつい、書いてしまっているということです。

 もし「かけ算は順序を入れ替えても同じ値になる」という性質を掘り下げるのであればこれは大問題です。

 なぜなら扱う本人の中では自由に掛け算の順序が入れ替えられていません。自分の都合の良い順列しか扱えないのです。さらにそこで頑張らずに使ってしまっています。

 これ(能力的な弱点と人間的な弱点)を放置するのが正しい教育なのかということです。○×で判定するのが良くない、という事も書いておられましたが、テストというのは弱点をあぶり出すために行うものです。○×が良くないという人の考えはこうです。「テストは点を取るためにやるもので、知性のバロメータを測るものだ」。見栄の心理が当たり前のように許容されてしまっています。

 科学という点から見ると、弱点が見つかったのは検証上の成果ですし、テストは有意義な行為です。否定的な価値観や世俗的な心理で点数だけにこだわる事は誤りです。こういった人が多いので点数で人格を否定するかのような世間体ありきの社会を助長しています。教室にこういった気配が洩れているとしたら社会の基盤に悪影響を与えていることになります。

 そもそも自分が見栄、世間体といった心理的な影響を多分に受けた状態での判断を正否に問えるでしょうか? 学問的にはNGだと思います。


4.数値主義

 以上、全ての問題は「数値第一主義」から来ています。
 言い換えると「結果第一主義」「点数第一主義」です。
 もしくは結果第一主義につながっていく考えです。
 なぜこれが悪いかというと学問に携わった者(学者や学生)が陥りやすい思想的心理的欠陥だからです。

 数値で人をランク付けすることが間違い、ではなくランク付けされてしまうのだから低い評価につながることは本人の成長のためであってもしてはいけないという考え方です。(太字部分が間違い)

 欠点や反省のない成長というものがどんな結果を導いているかは、現代の日本を見れば明らかではないでしょうか。

 そして反省がないので延々同じ事をしています。
 NGという判定を避けているから、受け入れてないからです。
 むしろ肯定するためにあえてNGな行為を続けます。

まとめ

 ・数値がすべてという発想から始まると保護主義的な思考になる

 ・価値があり大事なのは過程

 ・数字だけで語れるほど現実は簡単ではない

 ・弱点がエッセンスとして語られない時、そこにプロはいない。取り扱い注意の姿勢もない。この延長で安全論・楽観論が語られてしまうことを専門家であれば重く認識すべき

 ・これは専門家によくある思考上の欠陥で、「仮定の適用」です。仮定の事をモデルといいます。モデルの中で成立する法則や性質(になまじ知識があるせいで)を紐解く事で現実を語ろうとしてしまうのですが、そもそもモデルが成立する条件というのは限定的な現実の一断面なのでそれ単体で、または無条件に現実に適用することはできないのです。あくまで思考の産物なので現実化には様々な問題が発生します。
 にもかかわらず、この落とし穴にはまってしまうのはなぜなのでしょう。思考実験のツールであることを忘れてその世界に入り込み過ぎ、洗練された考え方であるという美意識に価値観を支配されてしまうからです。それが最上になってしまっています。
 現実の様々な条件を切り捨てた結果洗練されて見えているという事実が根本にあるにも関わらず、それが思考から欠落するまでのめり込んでしまった結果、状況が見えていない状態になります。
 言い換えると数式の基本的な定義なり用件、制約(つまり基本)が忘れ去られ、概念だけが美化されてしまっている状態です。


注釈

※1 順序を変えても結果は同じということですが、そもそも結果というのは時間経過によって獲得されるものです。時間が止まっていたり過去に流れたら結果には辿り着けません。

※2 この時、3倍にしたものを3分割する情報が分かっている(特定・決定されている)ので元の8cmが得られますが 8cmを5倍した40cmはそこにはありません。掛ける数は決定されているため変更できないのです。過去だから。
 別の言い方をします。8cmというのは物質化していてある期間、時間軸の位置に関わらず変化しない大きさです。三倍というのは意志の行使によって五倍や七倍に将来変化させられる値です。より時系列に拘束されにくい8cmを基の数として将来変化する可能性のある三倍を未来に配置して掛ける数にする方が論理定義的にも私たちの物理法則的世界観に於いても安定するのです。


サポート頂けると嬉しいです。