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源平紀行 源平盛衰と治承・寿永の乱の舞台を訪ねて

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源氏と平家、治承・寿永の乱にまつわる史跡をたずね、武家の黎明期の歴史文化をたどります。ヘッダーの写真は秋田県横手市「平安の風かおる公園」に設置された後三年の役のレリーフです(20… もっと読む
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近江源平紀行 平家終焉の地

 「源平合戦」として知られる源氏と平氏との戦いは、歴史学的には治承・寿永の乱と呼ばれる。1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子、以仁王が平氏追討の令旨を出したことに始まる。その結果平氏に追われた以仁王が庇護を求めて、今の大津市にある園城寺に逃れたことから、近江の地もこの国を二分する大乱の舞台となっていく。園城寺はもともと源氏との結びつきがあり、朝廷に強い影響力を及ぼしていた比叡山延暦寺と対立関係にあったことから、争乱に巻き込まれてゆく。そして、以仁王の出した令旨を掲げて京の

近江源平紀行 義経元服の池・鏡神社

東京と大阪とを結ぶ国道1号は、昔の東海道の経路をほぼ踏襲した道路である。名神高速道路のインターチェンジがある滋賀県栗東市で、この道は国道8号と分岐し、かつての中山道、北陸道を踏襲しながら新潟へ至っている。  印刷会社に勤めていた20代の頃、私は毎日のようにこの歴史ある国道1号から8号を、大津から竜王まで車を走らせ通勤していた。その道沿いにあって、毎日のように目に留まっていた石碑があった。国道8号を野洲市から竜王町に入ってすぐのところにある「源義経元服の池」の碑である。源義経

近江源平紀行 園城寺

 近江の社寺には、動乱の歴史の中に名を残すものが多い。最も知られているのが比叡山延暦寺である。その宗教的権威を後ろ盾に都に大挙しておしかけ、自らの要求を押し通した行為は「強訴」と呼ばれ、朝廷にとっては最も厄介といってもよい存在となっていた。  その延暦寺と並び動乱の舞台として「平家物語」に登場する、大津市の園城寺(おんじょうじ・またの名を三井寺)を訪れた。 ▲園城寺大門。もとは現・湖南市の常楽寺の門で、秀吉によって伏見に移築された後、家康によって現在の地に建てられたという

近江源平紀行 今井兼平の墓

 義仲は粟津の浜で最期を遂げたと伝わるが、義仲が葬られた義仲寺から、現在「粟津」の地名で呼ばれている場所までは少し離れている。距離にして約3km、最寄りの京阪電鉄石場駅から電車に乗って6駅目、粟津駅で下車して訪れてみた。近くに私が通っていた大津市立粟津中学校があり、この辺りはよく知る地域である。駅から少し歩けば琵琶湖岸に出る。しかし駅近くの観光案内板は湖岸から離れた裏道を示していた。通ったことのないその道を、石山駅方向に向かって歩いて行った。  平家物語に地名を残す粟津だが

近江源平紀行 義仲寺

 大津市のJR膳所(ぜぜ)駅から、琵琶湖に向かって徒歩10分ほど行った旧東海道沿いに、義仲寺(ぎちゅうじ)がある。そこから琵琶湖の湖面を見るまで、今はさらに10分近く歩かねばならないが、戦前までは、山門のすぐ前に湖水があった。粟津が浜、源義仲最期の地である。  1180年。公家にかわって武家である平家が都で大きな権力を振るうようになっていた時代、その横暴に耐えかねた後白河法皇の第三皇子、以仁王は平家追討の令旨を出す。これに応じた木曽の源義仲は挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで5万と