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近江源平紀行 園城寺

 近江の社寺には、動乱の歴史の中に名を残すものが多い。最も知られているのが比叡山延暦寺である。その宗教的権威を後ろ盾に都に大挙しておしかけ、自らの要求を押し通した行為は「強訴」と呼ばれ、朝廷にとっては最も厄介といってもよい存在となっていた。

 その延暦寺と並び動乱の舞台として「平家物語」に登場する、大津市の園城寺(おんじょうじ・またの名を三井寺)を訪れた。

▲園城寺大門。もとは現・湖南市の常楽寺の門で、秀吉によって伏見に移築された後、家康によって現在の地に建てられたという。

 園城寺は、江戸時代に「大津百町」として栄えた今のJR大津駅から浜大津周辺の旧市街地一帯の西、長等山の中腹にある。しかしその歴史ははるかに古い。大津には、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子が天皇に即位した後の667年、奈良の飛鳥から都が移され、近江大津宮が開かれた。しかし天智天皇亡き後、皇位継承を巡って天智天皇の子、大友皇子と天皇の弟である大海人皇子との間で壬申の乱が起こり、大友皇子が敗れてしまう。その父大友皇子の霊を慰めるため、与多王(よたのおおきみ)が創建したのが、この寺のはじまりだと伝えられている。園城寺(おんじょうじ)という名は、内乱の勝利者となった大海人皇子、のちの天武天皇から賜ったものだという。天武天皇は即位すると都を再び飛鳥に移し、近江大津宮はわずか5年で廃都となった。
 
 さざ波や 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

 平家一門の将、平忠度は廃都となった大津宮と、そのそばにあっていつまでも変わらず昔ながらに桜を咲かせる長等山の風景を歌に詠んだ。木曽義仲に追われて都落ちすることになったとき、和歌の師であった藤原俊成に自作の歌を書き付けた巻物を託し、一首なりとも勅撰集に入れてほしいと願った。俊成はその願いを聞き入れ「詠み人知らず」としてこの一首を「千載集」に入れたという。園城寺は、今も桜の名所である。

 山門をくぐると、広大な敷地に多くの伽藍が立ち並ぶ。中でもひときわ大きな国宝の「金堂」は安土桃山時代に豊臣秀吉の正室、北政所によって再建されたものである。その他の多くの建造物はいずれも歴史のあるものだが、平安時代までその由緒を遡ることのできるものはない。度重なる戦乱や延暦寺との抗争によって失われてしまったからだ。

▲秀吉の正室、北政所によって再建された金堂(国宝)。

▲金堂の横にある閼伽井屋の内部。ここから泉がわき、その水が天智天皇、天武天皇、持統天皇の産湯に使われたことから「御井の寺」と呼ばれ、そこから「三井寺(みいでら)」の名で親しまれるようになったといわれている。

 その延暦寺との浅からぬ因縁を物語るのが、「平家物語」にも登場する武蔵坊弁慶である。境内の一角に、「弁慶の引き摺り鐘」と名づけられた巨大な鐘が安置されている。奈良時代の作とされる園城寺初代の梵鐘だが、比叡山延暦寺との抗争の際、延暦寺から来た弁慶がこの鐘を奪って比叡山に引き摺り上げた、という伝説からこの名がある。

▲弁慶の引き摺り鐘

 釣り鐘は人が内部にすっぽり入ってしまうほど大きなもので、とても一人で持ち上げられるようには見えない。怪力で知られた弁慶と、比叡山との争乱の歴史とが結びついてこうした伝説が生まれたのだろう。

 ところで比叡山に引き摺り上げられたこの鐘だが、山上で撞くと「去のう、去のう」と鳴り響いたため、弁慶が「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒って谷底へ投げ捨ててしまったという。今も園城寺に残されているということは、一度は奪われたその鐘が、不思議な縁で戻ってきたということだろう。ここから分かるのは、それほどまでに、延暦寺との抗争は激しかったということである。実際に弁慶が関わっていたかどうか定かではないが、一つだけはっきりしていることは、弁慶はここ園城寺では敵対する側の人物だったということだ。いま、園城寺を訪れると弁慶の引き摺り鐘をモチーフにしたというマスコットキャラクター「べんべん」が出迎えてくれる。見た目は弁慶を思わせ、名前も弁慶を彷彿させるが決して弁慶ではない。そこが味噌かもしれない。

▲鐘がモチーフのマスコットキャラ「べんべん」

 木曽義仲が挙兵するきっかけになったのは、後白河天皇の第三皇子だった以仁王(もちひとおう)が出した平氏追討の令旨だった。この令旨が平家方に漏れたことから平家軍に追われることになった以仁王は、ここ園城寺に逃れ、匿われることになる。平家は園城寺に以仁王の引き渡しをもとめるが、園城寺側はこれを拒否。そのため平家は園城寺に向けて軍勢を差し向けることを決めた。一方、以仁王側には、源氏の源頼政が合流するが、危険が迫ったため奈良の興福寺に向けて脱出を図った。しかし宇治川を挟んで戦いとなり、追いつめられた源頼政は宇治平等院で自害。かろうじて脱出した以仁王も追撃され討ち取られた。
 しかしその後も平家に対抗する姿勢を崩さなかったことから、園城寺は平家の手にかかって炎上したという。平家物語の第四巻「三井寺炎上」は、火をかけられた堂舎塔廟は637カ所に及んだと伝えている。

▲毛利輝元によって現在の山口県から移築された「一切経堂」。内部には一切経の版木を納めた巨大な回転書架が設置されている。

 鎌倉時代を迎え、園城寺は源実朝によって再興されるが、その後も戦禍や延暦寺との抗争は絶えることなく、戦国時代には再び豊臣秀吉によって堂塔が破壊され、寺領没収の憂き目に遭う。現在、私たちが目にすることのできる伽藍の多くは、徳川家康、毛利輝元などの尽力によって再建されたものである。

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 以仁王を匿ったために朝敵とされた園城寺。この歌を詠んだ平忠度は、園城寺討伐軍を率いる副将軍だった。とすれば、そこに詠まれた「昔ながらに山桜が咲く長等山の春」とは、彼の悔恨からくる願いではなかっただろうか。

長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)・三井寺(みいでら)
大津市園城寺町246
TEL:077−522−2238
FAX:077−522−2221
拝観時間 8時〜17時
入山料 大人600円 中高生300円 小学生200円
アクセス:京阪電鉄「三井寺駅」より徒歩10分
     JR琵琶湖線「大津駅」より京阪バス「三井寺」下車すぐ
     JR湖西線「大津京駅」より京阪バス「三井寺」下車すぐ
駐車場:350台(普通車500円)

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