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近江源平紀行 義経元服の池・鏡神社

東京と大阪とを結ぶ国道1号は、昔の東海道の経路をほぼ踏襲した道路である。名神高速道路のインターチェンジがある滋賀県栗東市で、この道は国道8号と分岐し、かつての中山道、北陸道を踏襲しながら新潟へ至っている。

 印刷会社に勤めていた20代の頃、私は毎日のようにこの歴史ある国道1号から8号を、大津から竜王まで車を走らせ通勤していた。その道沿いにあって、毎日のように目に留まっていた石碑があった。国道8号を野洲市から竜王町に入ってすぐのところにある「源義経元服の池」の碑である。源義経といえば日本の歴史にその名を刻む希代の英雄にして悲運の貴公子。しかし源氏といえば、その活躍の舞台は京都か鎌倉で、なぜ、こんな名も知らない片田舎の国道沿いに、源義経ゆかりの史跡があるのか、まったく知らずに過ごしていた。京都・鞍馬寺にいた少年、遮那王が奥州藤原氏を頼って寺を抜け出し、平泉を目指す途上で元服したことを知ったのは、大河ドラマ「義経」を見てのことである(ただし、その場所には諸説あり、大河ドラマ「義経」での元服の舞台はここではなかった)。

 源義経は源氏の棟梁、源義朝の九男として生まれた。兄はのちに鎌倉幕府を開くことになる源頼朝。しかし二人は異母兄弟で、頼朝が挙兵するまで顔を合わせたことはなかった。
 義経の幼名は牛若丸。生まれてまもなく父義朝は平治の乱を起こして平清盛に反旗を翻すが、敗退。都を落ち延びる途中で謀殺された。この義朝の血を引く嫡男の頼朝は、13歳の若さで伊豆に流されることとなる。しかし義経はその母、常盤御前とともに平清盛の庇護を受け、成長して鞍馬寺に預けられる。今の滋賀県竜王町鏡の国道8号沿いにある「源義経元服の池」は、そんな彼が源氏の武士の一人として歩み始めるための儀礼の場だったのだ。

 もう一つ不思議なことがあった。元服の池、というが、元服するのになぜ池という場所が必要だったのだろうか。伝説がこれまで残るということは、池という場にそれなりの説得力があったからではないだろうか。
 元服とは、公家や武家に生まれた子どもの人生儀礼の一つで、今でいう「成人式」である。元服をするということは、上流階級の証しであった。年齢的には13歳から15歳で元服を行うのが通例であった。
 元服に先立って、中世では鉄漿付(かねつけ)が行われることもあった。これはいわゆる「お歯黒」で、もともと女性のみに行われていたものだが、平安時代末期には公家の男性や平家の武士も行っていたようである。鉄漿(酢酸に鉄を溶かした溶液)五倍子粉(ふしこ)と呼ばれる粉を交互に筆などを使って歯に塗って黒く染めるものだが、源氏である義経はこれは施していなかっただろう。

 そして元服。成人の証として髪型、服装を改めるもので、髪を結って冠(烏帽子)をかぶせ、衣裳も身分に即したものに改めた。理髪の役、頭に冠を載せる役の二役を、公家や武士が務めたようである。そして、幼名(義経の場合は牛若丸)を廃してあらたに諱を名付けてもらうと、晴れて成人の儀式は終わるのであった。つまり、この「元服の池」での儀式によって、はじめて牛若丸は「源義経」と名乗り始めることになるのである。現地に建てられた石碑によると、この池の清浄水を汲み取って前髪を落とす理髪の儀式を行った、ということである。櫛で大人の髪型に結ったあとに髪を整える際、湯水を使う習わしだった。そのために、池の水が必要だったのだろう。

 今、国道8号の激しい車の往来の傍らにたたずむ「源義経元服の池」は直径が1メートルあまりの水たまりのような池で、観光ガイドマップには「浦山の湧き水がしみ出てきているもの」とあったが、その水は淀んでいた。おそらくかつては、清涼な水をたたえていたのであろう。

 そこから、細い歩道を東に向かって50メートルほど歩くと鏡神社がある。元服の儀式は社前で行ったということなので、これがゆかりの神社ということになる。「鏡神社」と刻まれた石柱と参道をはさんだ向かいに、もう一つ義経伝説を物語る遺物がある。「源義経 烏帽子掛けの松」である。
案内板には「承安4年(1174)3月3日、鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し・・・」とある。元服して烏帽子を受けた義経が、参拝にあたって烏帽子を脱いでここに掛けた、ということだろうか。

 しかし、古代から中世にかけて、男性は高貴な公達から身ぐるみはがれた博徒にいたるまで、皆烏帽子を被るのを習わしとしており、烏帽子を人前で脱ぐのはむしろ失礼、屈辱的な行為であると何かで読んだことがあった。とすると、烏帽子を松枝に掛けて参拝するというのは、当時としては少々礼儀知らずな行為に思える。

▲鏡神社の本殿。こけら葺の屋根を持つ社殿は南北朝時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。

 実は源義経の生涯については、平家追討に活躍した2年間を中心にした前後、せいぜい5年ほどしか史実としての記録は残されておらず、牛若丸の物語やここに紹介した元服の様子などは、すべて伝承の域を出ないものだという。ここ竜王町鏡で義経が元服したと伝えるのは、1159年に起こったた「平治の乱」に始まる動乱を描いた「平治物語」である(一方、室町時代に成立した「義経記」は元服の地を熱田神宮と伝える)。今から800年以上前の出来事であるだけに、もし、鏡で元服したことが事実だったとしても、池や松が当時もあったかどうかは分からない。むしろ伝承を語り伝えるものとして、池や松がその舞台に用いられたということかもしれない。

 元服した義経が参拝したという鏡神社もまた、古い歴史を誇る神社である。最新は天日槍(アメノヒボコ)で、日本書紀によれば、新羅の王子で紀元31年に日本に渡ってきて、陶物師や医師、薬師、鏡作師、鋳物師などの技能集団を率いて近江の国に入ったという。そして、持って来た鏡をここに納めたことから「鏡」の地名が生まれた。この神社から、国道8号をはさんで南側にある「鏡山」には鏡にまつわる伝説が残り、この周辺には渡来人に関わる遺跡も多くのこされている。

 河内源氏の2代目棟梁で、陸奥守、鎮守府将軍として奥州平定に努めた源頼義は、奥州に赴くにあたって園城寺(三井寺)境内にある新羅明神に戦勝を祈ったという。義経もまた、鞍馬寺を抜け出して奥州へと向かう途上であった。そうした先代にならい、やはり新羅の王子を祭った鏡の地を、義経は元服の地に選び戦勝を祈願したのかもしれない。

 鏡神社前からさらに国道8号沿いに東へ歩くと、「義経宿泊の館跡」の石碑が現れる。ここには、義経一行が宿泊したという旅籠「白木屋」があったという。そこには、義経が元服の際に使ったという盥(たらい)の底板が代々伝わっていた。今はその家も絶えたため、盥の底板は鏡神社に保管されている。戦時中には出征する若者たちが武運を祈り、お守りとして少し削り取っては戦地へ携えて行ったと伝えられている。確かに、元服した義経は、兄頼朝の挙兵に馳せ参じ、平家追討で英雄となった。その戦法は今でいう奇襲とゲリラ戦である。武運にあやかりたい、という思いは切なるものであっただろう。しかしその後の義経の運命は悲劇であった。元服の盥の木片を握って戦地へ行った若者たちには、一体どんな運命が待っていただろうか。

義経元服池・鏡神社
滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
TEL:0748−58−3706(竜王町観光協会)
アクセス:JR琵琶湖線「近江八幡駅」よりバス「鏡」下車徒歩5分
     名神高速道路竜王I.Cより車で10分
駐車場:「道の駅竜王かがみの里」利用可


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