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近江源平紀行 義仲寺

 大津市のJR膳所(ぜぜ)駅から、琵琶湖に向かって徒歩10分ほど行った旧東海道沿いに、義仲寺(ぎちゅうじ)がある。そこから琵琶湖の湖面を見るまで、今はさらに10分近く歩かねばならないが、戦前までは、山門のすぐ前に湖水があった。粟津が浜、源義仲最期の地である。

 1180年。公家にかわって武家である平家が都で大きな権力を振るうようになっていた時代、その横暴に耐えかねた後白河法皇の第三皇子、以仁王は平家追討の令旨を出す。これに応じた木曽の源義仲は挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで5万とも10万とも言われる平家の軍勢を破って上洛。朝日将軍と呼ばれるようになる。しかし平家が都落ちした後の混乱を鎮めるどころか、かえって率いてきた軍勢が乱暴狼藉をはたらき、さらに皇位継承問題で後白河法皇と対立。これを機とみた源頼朝は源範頼・義経軍に義仲追討を命じた。都から追われた義仲はここ、琵琶湖畔の粟津が浜で討死した。義仲寺は、その遺体が葬られた場所に建立された寺である。

 桜のつぼみが膨らむ3月の末、義仲が眠る義仲寺を訪れた。山門をくぐって拝観受付に入ると、受付のご婦人が、山門表の右に立つのが「巴地蔵です」と教えてくれた。拝観受付の隣には小さな史料館があり、主に松尾芭蕉に関する史料が展示されていた。境内には、紙片とペンを手に思案顔の人の姿がある。奥にある無名庵で句会が開かれていた。

▲義仲寺境内。奥に見えるのは芭蕉座像を安置した「翁堂」。
内部には伊藤若冲の天井画がある。

 5万の軍勢を率いて都に入った義仲だったが、粟津が浜に落ち延びてきたとき従ってきたのはわずか3百騎だったと「平家物語」は伝える。甲斐源氏の一条忠頼率いる6千騎の軍勢に囲まれた義仲軍は奮闘するも惨敗、残りわずか5騎となってしまう。その中には義仲の愛妾で女武者の巴御前の姿もあった。義仲は巴に逃げることをすすめるが、彼女は「私の最期の戦いをご覧にいれたい」と言い、やってきた御田八郎師重率いる30騎の軍勢の中へ駆け入って、御田八郎の首を取る奮闘を見せた。そして武具を捨て、東国へと落ち延びた。
 残されたのは義仲のほかには今井兼平の1騎のみ。兼平は「あそこに見える粟津の松原、あの松林の中でご自害ください」とすすめる。それは、他の誰にも「俺が木曾義仲を討ち取ったのだ」と言わせないための配慮だった。義仲はその言葉を聞き入れて兼平から離れ、粟津の松原に入っていくが、薄く氷の張った深田に馬の足をとられたところを、三浦の石田次郎為久に討ち取られてしまった。
 これが、「平家物語」に描かれた木曾義仲の最期である。

 討ち取られた義仲の首は京の都で晒しものにされた。ここに葬られたのは胴だという。境内のほぼ中央にその墓があった。盛り土の上に、長い風月にさらされた宝篋印塔が建てられている。もともとは土を盛った塚だけの墓で、室町時代になって、この地を治めた近江源氏の佐々木六角氏が宝篋印塔の立派な墓を建てた。源頼朝軍と戦って滅んだ反逆者だけに、同じ源氏の血をひくものでさえ、時代を下らなければ供養することすら叶わなかったのだろうか。

▲木曾義仲の墓。毎年1月第三日曜日に「義仲忌」が営まれている。
 義仲の 寝覚の山か月悲し 芭蕉 (元禄2年、燧山にて)

 そんな義仲の墓に寄り添うように、巴塚の小さな墓標がある。そして背中合わせに建つのが、俳聖・松尾芭蕉の墓である。芭蕉は「死んだら木曽殿の墓の隣に葬ってほしい」と遺言するほど、義仲に心を寄せていた。多くの弟子に看取られて1694年に息を引き取ると、弟子たちはその夜のうちに芭蕉の亡骸を船に載せ、大阪から大津へと運んできたという。境内には、朝日将軍義仲の木造を祀った朝日堂の横に、庭園をはさんで芭蕉の木造を祀った翁堂がある。芭蕉をしのんで訪れた人が義仲と出会い、義仲をしのんで訪れた人が芭蕉と出会う。そんな懐しい交わりがここに生まれている。

▲義仲の愛妾、巴御前の塚。

 なぜ、芭蕉はそれほどまでに、木曾義仲に惹かれたのだろうか。この時代の英雄といえば、一にも二にも義経だ。義仲は豪胆だが粗野で、都の雅びになじむことなくその地を追われ、最後は従うものもなく一人討死しなければならなかった。そこに義経のような悲劇はない。
 そんな問いかけを寺務所のご婦人に投げかけてみた。するとご婦人は「最近『京都ぎらい』という本が出て人気になっていますけど、」と前置きしてこう答えた。今も昔も京都の人はなかなか本心を明かさない陰険などころがある。そんな所に木曽の山奥から飛び込んできた義仲の、まっすぐなところが好きだったんでしょう、と。

 平安末期の当時、挙兵した武将の旗の下に呼応した地方の豪族たちがどんどん集まってきた。都を目指した義仲の軍が5万、10万の大軍に膨れ上がっていったのは、この「勝ち馬」に乗ることで勝利の分け前に預かろうとした。義仲は都から横暴を極めた平家を追い出して一躍時代の英雄になった。しかしそこから都でやんごとなき公家、貴族たちの権謀術数に関わらざるを得なくなる。そんな中でまっすぐ過ぎる彼はたちまち足下をすくわれ、今度は都を追われることになる。「勝ち馬」に乗ろうと従ってきた地方の武士たちは、当然のように今度は次の「勝ち馬」に瞬く間に乗り換える。義仲が、都に上ってきたときは10万の大軍を率いながら、都から落ちてゆくときにはわずか3百騎が従うばかりになっていたのは、つまりそういうことなのだ。
 芭蕉も当時、俳諧の世界で周りから持ち上げられた大スターだった。でも人気稼業なだけに、いつその座から落とされるかもわからない。だからこそ、それでも都の権力に阿ることなく、まっすぐに自らの生き様を貫き通した義仲に惹かれたのだろう。

▲芭蕉の弟子、又玄の句碑
木曽殿と 背中合せの寒さかな

 そこでふと気づいたのだが、芭蕉の生きた江戸時代前期から見ても、木曾義仲の生きた時代とは5百年以上の開きがある。それはちょうど現代を生きる私たちと、戦国時代を駆け抜けた武田信玄や織田信長との間にあるのと同じくらいの隔たりだ。芭蕉が生きたのは、武家による政権が完成した時代だった。そこから過去をかえりみると、義仲の生きた時代はまさに、武家が公家にかわって権力を握り時代を動かそうとし始めた、いわば「武士」の黎明期だった。戦国の動乱から徳川政権樹立に至る流れもまた、はるか昔のこの時代に源があるということができる。芭蕉は義仲に、侍としての生き様の原点を見たのかもしれない。

 平家の時代から幕末の大政奉還まで、実に7百年にわたって国を動かしてきた武士たちの、その歴史のはじまりとして、源氏と平家にまつわる事跡を追いかけてみたい、と思った。

国指定史跡 義仲寺(ぎちゅうじ)
大津市馬場1丁目5−12
TEL:077−423−2811
拝観時間:9時〜17時(11月〜2月は16時まで)
拝観料:大人300円 中学生150円 小学生100円
アクセス:JR琵琶湖線「膳所駅」より徒歩10分 
     京阪電鉄「京阪膳所駅」より徒歩10分
駐車場:なし
※寺務所には、松尾芭蕉にまつわる土産物が豊富にそろう。中でも芭蕉、去来、蕪村、一茶の俳句をあつめた「俳聖かるた」は全国で4人の俳聖にまるわる史跡16カ所でしか販売されていないレアな一品。楽しみながら名句を憶え、名句に親しむことができる。
そのほか、松尾芭蕉直筆の書を版にして刷られた芭蕉の句も販売されている。


 

 


 

 

 



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