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近江源平紀行 平家終焉の地

 「源平合戦」として知られる源氏と平氏との戦いは、歴史学的には治承・寿永の乱と呼ばれる。1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子、以仁王が平氏追討の令旨を出したことに始まる。その結果平氏に追われた以仁王が庇護を求めて、今の大津市にある園城寺に逃れたことから、近江の地もこの国を二分する大乱の舞台となっていく。園城寺はもともと源氏との結びつきがあり、朝廷に強い影響力を及ぼしていた比叡山延暦寺と対立関係にあったことから、争乱に巻き込まれてゆく。そして、以仁王の出した令旨を掲げて京の都へ押し寄せて来たのが、木曾義仲の軍勢である。

 東海道・中山道といった私たちがよく知る江戸時代の街道が整備されるずっと以前、古代の律令制度によって整備された官道があった。その一つが東山道で、近江を起点に美濃からはるか奥州にまで通じていた。牛若丸が鞍馬寺を脱け出し、奥州平泉を目指す道すがら、元服して源義経を名乗った鏡の宿はこの道沿いにあった。今はそこを国道8号が走っている。

 神はときに、歴史の中に驚くような演出をほどこす。「義経元服の池」のある鏡神社のすぐそばに、それを感じさせてくれる史跡がある。「平家終焉の地」である。国道8号沿いに「平宗盛胴塚」という古ぼけた看板があることは、ずっと以前から知っていた。ここで宗盛が斬首されたのを知ったのは、大河ドラマ「義経」を見てからのことである。

 平宗盛は平清盛の三男として生まれた。母は時子だが、清盛にとっては二人目の正室だった。最初の妻(名前は伝わっていない)は病で命を落とし、その後を継いで正室になった、という関係である。長男は最初の正室との間に生まれた重盛で、宗盛の10歳年上であった。

 宗盛は無能な二代目という描き方をされることが多かったようだ。その原点は言うまでもなく「平家物語」で、「巻の四」で優雅な兄重盛との対比が描き出されている。以仁王の挙兵を招いた遠因も、宗盛の紀行にあるというのだ。
 源頼政の嫡男、仲綱は「木の下」という名の馬を所有していた。その鹿毛の馬は「この世に並ぶものはない」と内裏でもささやかれるほどの名馬であったという。
 この馬をどうしても欲しくなった宗盛は譲渡を希望する。愛馬を手放したくない仲綱が「乗り疲れさせたのでしばらく田舎で休ませています」という返事をし、一度は納得したものの、他の平家の侍らが口々に「昨日も見た」「今朝も見た」と言うので気持ちを変え、何度も侍をやって馬を譲るよう催促した。父、頼政に促されようやく「木の下」を手放す決意をした仲綱だったが、宗盛はしぶとく断りつづけた仲綱を恨んで、馬に「仲綱」と名付けた、と「平家物語」は伝える。頼政は、その宗盛のふざけた行いに憤り、以仁王の令旨をもって平家に反旗を翻すに至った、という。

 これに乗じて源頼朝、源義仲が蜂起し、治承・寿永の乱の火蓋が切って落とされる。源義経の活躍で西へ、西へと追いつめられた平家一門は、ついに壇ノ浦の戦いで敗北が決定的となり、時子が孫の安徳天皇と三種の神器を抱えて入水。平家の武者たちも次々と身を投げ、海の藻屑となった。しかしとのとき、宗盛は沈まなかった。泳ぎが達者だった彼は、海に身を投げても浮いてきてしまったのだ。そこを源氏に引き揚げられ、源義経は宗盛・清宗父子を兄・頼朝のいる鎌倉へと護送した。しかし義経自身は、平家が持ち去った三種の神器のうち鏡と璽を奪還したものの、都の後白河法皇へ戻したことや、無断で官位を受けたことなどなどが頼朝の逆鱗に触れ、鎌倉の手前の腰越に留め置かれる。そして鎌倉から戻されてきた平宗盛・清宗父子を連れて、再び都へ行くように命じられた。宗盛斬首を命じられたのは、あと1日で都に着くというところまで来たときのことだった。義経は、かつて奥州に向かう途中で元服した鏡神社からわずかに都寄りの、今の野洲市大篠原の地で、宗盛の首を落とした。

 国道8号沿いにある「平家終焉の地」の看板を目印に、道から少し入った空き地に車を停めると、そこから産廃工場のフェンス添いに、けもの道のような細い道が伸びている。奥へ入っていくと、傍らに風雨にさらされてすり減った墓碑が二つ並んで建っていた。宗盛、清宗の胴塚である。その首は都で晒されたという。

 案内板には、墓の向かいにある池で宗盛の首を洗ったところ、蛙が哀れを感じて鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」と呼ばれる、とあったが、見回しても池はどこにもなかった。私の記憶では、今産廃工場が建っているところが池だったように思う。恐らく埋め立てられてしまったのだろう。周囲は交通の便がいいこともあって、工場団地となっている。雰囲気が悪く、平家終焉の無常を感じるどころではない。歴史文化を顧みず開発を進める地元自治体に対する怒りを覚えた。

 それでも、墓碑の前には人が訪れ供え物をしたあとが見てとれる。たとえ荒れ果てていても、そこに朽ち果てた石が並んでいるだけであっても、歴史の現場に足を運ぶことには、意味がある。そう思う人が少なくないことに、望みがあると感じた。

 

 大河ドラマ「義経」の平宗盛は鶴見辰吾が演じていた。大篠原の宿で頼朝からの命令が伝えられる前のつかの間のひととき、義経との昔語りから、自分の運命を察した上で義経の前に出てきたことを明かす場面が好きである。自分が首を斬られることはわかっている、しかし息子の清宗だけは助けてくれと。彼は清宗の命が失われれば、すなわちそれは平家の終焉であることがわかっていた。
 宗盛は貴族化した武士で「驕れる平家」の典型的人物として描かれていたが、最後に武士としての矜持を見せたところに、ドラマの中に流れるある種の「平家愛」を感じた。

 都で貴族に並び、それ以上の権勢をほしいままにした平家一門の宗盛。その平家を西国まで追い詰め、一躍英雄として歴史の表舞台に躍り出た義経。宗盛の死によって平家一門は歴史から消えたが、義経もまた、やがて消え去る運命にある。宗盛の最期を見届けたとき、義経の胸に去来したのはどんな思いだっただろうか。自身の行く先を、そこに見たのではなかったか。

平家終焉の地(へいけしゅうえんのち)
滋賀県野洲市大篠原 国道8号沿い(南側)
アクセス:名神高速道路栗東I.Cまたは竜王I.Cより車で15分
駐車場:国道から入ってすぐの所に2台ほどの駐車スペースあり

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