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近江源平紀行 今井兼平の墓

 義仲は粟津の浜で最期を遂げたと伝わるが、義仲が葬られた義仲寺から、現在「粟津」の地名で呼ばれている場所までは少し離れている。距離にして約3km、最寄りの京阪電鉄石場駅から電車に乗って6駅目、粟津駅で下車して訪れてみた。近くに私が通っていた大津市立粟津中学校があり、この辺りはよく知る地域である。駅から少し歩けば琵琶湖岸に出る。しかし駅近くの観光案内板は湖岸から離れた裏道を示していた。通ったことのないその道を、石山駅方向に向かって歩いて行った。

 平家物語に地名を残す粟津だが、昭和に入るまではこれといって何もない所だった。東海道が走っており、かつては松並木があったという。その名残の1、2本がわずかに中学校の前の道路に残っていたのを覚えている。その先には古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われてきた瀬田の唐橋がある。戦後になるまで、それが琵琶湖の東西を結ぶ唯一の橋だった。そのようなところだから、人の通りはあっただろうが、目に入るのは琵琶湖とその縁を彩る松林、そして田園の風景だっただろう。

 昭和に入ると、豊富な水資源と交通の便が注目されて、この地には多くの工場が建ち並ぶようになった。粟津駅からの道筋にも、製造業に関わると思しき建物が並んでいる。琵琶湖の対岸の瀬田には三洋電機の大きな工場があり、全国に出荷される洗濯機がここで製造されていた。今は、跡形もない。それもまた、盛者必衰の理かもしれない。

▲今井兼平の墓は、琵琶湖に注ぐ盛越川のほとりにある。

 好況がとうの昔に過ぎ去った感のある静かな通りを歩いて10分弱、JR石山駅裏の住宅街の一画に「今井兼平の墓」があった。今井兼平は木曾義仲の腹心の武将で、木曾義仲の挙兵に従い倶利伽羅峠の戦いなどで武勲を挙げ、平家を都落ちさせて義仲とともに京に入った。しかしやがて鎌倉軍に追われて都を離れることになる。激しい追撃の中義仲と2騎になるまで戦い抜き、粟津の浜まで逃れてきた。そこで「日頃は何とも思わない鎧が、今日は重くなった」と嘆く義仲に、「それは後ろに続く味方の軍勢がいないので気弱になったからでしょう」と言い、無名の者に討ち取られて自慢の種にされては悔しかろう、と自害をすすめた、と平家物語は伝えている。
 その後、兼平は敵50騎の中に駆け入って名乗りを上げ、「この兼平を討って頼朝殿に見せよ」と挑みかかった。その気迫に気圧されたかのように誰も立ち向かうものはなかったが、義仲を討ち取った、と首を掲げて叫ぶ者の声を聞き、「日本一の剛の者の自害の手本を見よ」と告げると太刀の先を口に入れ、馬から逆さに飛び降りて果てたという。

▲墓のある場所は小さな公園になっている。碑は立派だが入りにくい入り口。

 墓には今も訪れる人が絶えないのだろうか、分かりやすい案内板が掲げられており、入り組んだ住宅街でも迷うことはなかった。川沿いに小さな公園があり、脇に「兼平庵」という小さな集会所のような建物が建っている。入り口と書かれた立て札の横の狭い小径を入っていくと、鎮魂碑、そして粟津原合戦史跡顕彰碑と刻まれた立派な御影石の石碑があり、その奥に、石造りの柵に囲まれて、「今井四郎兼平」のひときわ大きな墓があった。

▲今井四郎兼平の墓。信州諏訪の今井家末裔によって今の墓が建立された。

 墓は、もともとは、もう少し山手にあったという。今井兼平戦死の地をもとめた膳所藩主、本多俊次が、墨黒谷というところにあった兼平の塚を探し当て、そこに墓を建てたのがはじまりだった。その5年後に、次の藩主、康将が東海道の粟津の松並木に近いこの場所に移設し、明治44年に、信州諏訪の今井家末裔によって再改修され現在に至っている。

 なぜ、膳所藩主の本多氏は今井兼平の墓を建てて参拝しようとしたのか。史跡案内の看板はそこまでは伝えていないが、兼平の最期が謡曲として長く歌い継がれてきたことを教えてくれる。室町時代、観阿弥、世阿弥によって完成された猿楽(現在の能)は戦国武将に愛好された。「兼平」は主君に最後まで従い、その後を追うかのように凄絶な最期を遂げた兼平の忠義と勇猛を伝えるもので、まさに武士の鑑というべきものではなかっただろうか。とすれば、その墓を探し当て、供養することを通してその死に様を伝えることは、徳川四天王と呼ばれた本多忠勝を祖に持つ本多氏にとって、自らのアイデンティティを保持するために大切なことだったのかもしれない。あるいは現代の私たちが、例えば亡き主君豊臣秀吉への忠義を貫き徳川家康と天下分け目の大決戦を戦った石田三成の姿に心動かされるのにも似た感動があったからかもしれない。


 東国へ落ち延びようとする者には、目の前に広がる琵琶湖は絶望の淵であっただろう。その湖水が行き手を阻むからだ。墓のある公園から琵琶湖岸を出ると、彼らが渡ることのなかった瀬田の唐橋へ向かって歩いて行った。そのときばかりは、見慣れた琵琶湖の風景がいつもと少し違って見えたような気がした。

大津市指定文化財 今井兼平の墓(いまいかねひらのはか)
JR石山駅北口前広場から徒歩3分


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