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「平成の名小説」全レビュー(2)山田詠美「晩年の子供」

「新潮」別冊「平成の名小説」に収録された全作品を順に紹介・レビューしています。2作目は、山田詠美「晩年の子供」。「新潮」平成2年1月号に掲載された作品ですね。今回も、印象的な一節を引用したうえで、物語の紹介と読みどころを書いていきます。

秋は、いつのまにか、匂いすら放っていた。橙色の柔らかな陽ざしは、私の瞳ばかりでなく、鼻までも刺激して、私をたまらなくさせた。落ち葉を踏みしめながら、私は心の中で叫んだ。わかったから、あなたが私の側にいるのは、よくわかっているのだから。私は、秋に、そう伝え、聞き分けのない恋人をなだめるように、やさしく息を吹きかけ、抱きしめた。私は、男を愛するという言葉すら、その時、知らなかったが、そういうやり方で、秋を愛した。

伯母の家で夏休みを過ごしていた十歳の「私」が、その家の飼い犬チロに噛まれてしまいます。たまたまその日にテレビで狂犬病のことを知った「私」は、自分があと半年しか生きられないものと思い込みます。誰にもその秘密を告げないまま、「私」は思索にふけったり普段ならしない行動をとったりしながら、せまりくる死と向き合い、みずからの「晩年」を過ごす、という物語です。

引用箇所にもあらわれているように、「私」の感性は、自分があと半年しか生きられないという思いのなかで研ぎ澄まされていきます。自分が周囲の愛によって包まれていたことについて、自分がクラスメートにとっていた卑怯な態度について、自然のなかに堆積する時間の層について、「私」はつぎつぎと思いをめぐらせます。読み手はまず、その感性のみずみずしさや、たしかに「晩年」という表現がふさわしく感じられる少女の「悟り」のような境地に惹かれるでしょう。
そしてそのような繊細で鋭利な感受性は、チロに噛まれる前——「晩年」を自覚する前——から、「ただ退屈していた」と説明される「私」のなかに予感として読み取れた賢さでもあり、さらにはこの年代の少年少女に特有のするどい直観的な知性といえるような感覚でもあります。その脆さやするどさが、死の自覚によっていっそう増幅される、というのがこの作品の基本的な構造です。

秋という季節への愛おしさを感受する引用箇所や、理科準備室から盗んだ石に感動を覚える描写は、「私」の世界へのアンテナの感度の高さを見事に伝えてくれています。「私は、感激のあまり、胸が痛くなった。私は、自分の心臓が、酸を味わった舌のように、きゅんとくぼむのを感じた。私は、石に囲まれて、すべてのことを許しつつある自分に気付いた」。読み手の心臓もきゅんとくぼませるような、きれいでせつない表現です。

と同時に、飼い犬であればみな予防注射を接種していて、狂犬病の心配はいらないという基本的な事実を、最後に母親に告げられるまで知らないという「私」の無知によって、この物語の設定が成り立っていることも見逃せません。物憂げに世界を眺め、伯母の飼い犬に噛まれて怪我をしても犬の立場が悪くならないよう何事もなかったように振る舞い、教室でも特権的な地位を得ていた「私」の賢さと、テレビアニメに出てきた狂犬病の様子から自らの死を確信してしまう短絡ぶり。
そのアンバランスさが、あるいは自分が狂犬病にかからないとわかって憮然とし、すぐに「明るい学校生活を過ごすこと」を決意する変わり身のはやさこそが、結局は少年少女に特有の、不安定でときに根拠を欠いた全能感や、気分とエネルギーの激しい振れ幅を、読み手に思い出させるでしょう。じゃっかんの痛々しさと、とほほ感とともに。

もしかしたら、半年後にせまる死を前提に世界をとらえようとする「私」は、自分が本当はまだ死なないだろうということを心の片隅でわかっていたのかもしれません。あるいは、その思いを打ち消すために、より強く死を信じこんでいったのかもしれない。あるいは、退屈していた「私」が、狂犬病という都合のいい悲劇に飛びついたというのが正確なところかもしれません。
子供時代に、自分がいまにも死んでしまいそうな気がする、自分にはきっと悲劇が待ち構えているような気がする、そういう妄想という表現では軽すぎるような深刻な思いを抱いたことは、誰にだってあるのではないでしょうか(いや、大人にだってそういう思いはあるのですが、子供のときのそれは独特の焦燥と陶酔をともなっているように思うのです)。それで、あるときには深く物思いに沈んだり、あるときにはあっけなくそんな思いを忘れ去ったりする。この作品が描き出しているのは、そういう気まぐれのシリアスさです。

回想形式で語られるこの物語はそれゆえ、結局のところ、もう「子供」ではなくなってしまったわたしたち、どうやら生きのびてしまったわたしたちの心を、誰もがかつて経験したことのあるはずの甘さと痛さでもって抉るように仕向けられているのだといえそうです。

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