コンフォートゾーンと他者との折り合い
週末、夫と家事のやり方について若干言い争いになった時、図星の一言が飛んできた。彼いわく、私は「自分自身のコンフォートゾーンから外れることを極度に嫌がる」のだと。「汚れてから掃除すればいいじゃん。俺は現にそうしてる。汚れる前から常にゼロに戻すようなことばかりをなぜするの?」
私は特に几帳面でも神経質な人間でもない。ただ、汚れは極力溜めず、早めに対処した方がのちのち楽であることは明白だ。一度汚れに目をつぶれば、どうなるか。そのうち見て見ぬふりをして、汚れはどんどんたまってゆく。「汚れたら掃除をする」と話す夫も日々の雑事に追われて、おそらく見て見ぬふりをするだろう。ここまでのシナリオが目に見えてわかるからこそ、私は日々せっせと必要最低限、部屋をきれいに保つ。
でも、特に几帳面でも神経質な人間でもない私にとっては、このルーティンが非常に辛い。別に誰かに頼まれているわけでもない、勝手にやっているとはいえ、「自分のため」とも思えず、ただやるべきこととして、常に先読みをして家事を遂行する。
だけど、この先読みが自分自身をどんどん陥れていく。
先読みをして、予定通りに事が運ぶことに快感をおぼえる。「ほら、ちゃんと先読みしたおかげで損をしなかったでしょ」と。だけど、ふと我に返り、目の前の出来事をなんでもかんでもコントロールしようとする自分自身に気づく。コントロールできるのだと錯覚してしまう自分。部屋を片付けたら、ちゃんときれいになるように。だけど、人間をコントロールすることなんてできない。
自分のコンフォートゾーンを保つことは大切だけど、他者との折り合いから目を背けてならないなと常々思う。多少は大雑把に流したり、目をつぶることは必要だ。まぁ、それがなかなかできなかったり、自分以上にコントロールフリークな人間を前に身動きがとれなくなったりするのだけど。
他人とのボーダーラインをうまくひくこと。これがなかなかに難しい。過剰に押し付けたり、どうでもいい他人の言動に反応したり。それがうまくできないからこそ、自分自身のコンフォートゾーンを極度に守ろうとしてしまうのだろう。そんな苦悩はいつまでもやまない。
そういえば、夏目漱石『草枕』には有名な冒頭文がある。”智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。”
個人的にこのフレーズをこれまで何度心の中で呟いたことか。しかしここからが肝。漱石はこう続ける。
芸術の尊さを説く一方で、どうにも行き場のない心を抱えながらも、「束つかの間の命を、束の間でも住みよく」するためのヒントを与えてくれる。目の前の現実からは逃げられずとも、見方を変えれば世界は変わる。部屋が散らかったらどうにもイライラするけれど、整った本棚スペースに目を向ければ、この部屋も捨てたもんじゃないと思う。すべては完璧じゃないけれど、なるべく明るい気持ちになる面を見れば、自分の感情にも他人の悪気にも溺れずに済むかもしれない。
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