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憧れと諦めと人生の本番

また一つ、年をとった。

誕生日を年始めに迎えるせいか、年を取ることはどこかリセットスタートをきるような気持ちになる。

いよいよ自分に決断を下すような時機に思えて、今年の私はちょっと違うと言いたい気分である。一言でいえば、「諦めの先にこそ本番が始まる」ってこと。必要以上に自分に期待をかけ続けているうちは、現実は何も見えてこないままだなと。

ここ数年は、とにかく自由に、心地よいことだけを選んで仕事をしてきた。でもその分、するすると手の内からこぼれ落ちていったものは多かったかもしれない。ほどほどに、身の丈にあった……、そんな決まり文句で本心をごまかしていた、とも思う。「暮らしを守るため」という大義名分を隠れ蓑にしていたんじゃないかって。でもまあ、そう信じて現に守れたものがあるんだったら、百点満点じゃないかとも思う。

会社員時代は、わりと調整役を任されることが多くて、周りに対して過敏すぎる性格もあいまって、心を疲弊させることが多かった。でも、今の仕事は文章を書くことが好きだからというよりも、人との関わりや調整という点において自分に合っていた。筆1本で身を立てるという気持ちなどさらさらなかったというのもあるけれど、今の仕事以前に自分自身が積み上げてきたことをより深め、生かしていきたいという気持ちになっている。自然の流れに抗わないということも大切だよなと思う。

結局、自分のやっていることに飽きてしまったら終わりなのかもしれない。だから、良い意味でも悪い意味でも人に影響を受けたり、うまくいかないって落ち込んだり、紆余曲折、遠回りしながらでもその道を歩き続けることに意味があるのかも。何かしらのアクシデントや心の揺れが起きたりするからこそ、その物事に向き合えるってことかも? 人生は壮大な暇つぶしですから。

最近、ふと気づいたのだけれど、私が書きたい文章の理想形って吉本ばななさんが書くものなのだろうと。だから、確実に到達できない極地だと思っている。

彼女の本を読むと、なぜかいつも懐かしいと思ってしまう。

そして、どうしてか家族のことを思い出す。たとえば4歳上の姉と夜中にカラオケ大会をしたこと、当時姉が好きだったバンドの深夜のラジオ番組を聴いて過ごした時間のこと。

冬の雨の日、小学校から帰ると、畑仕事ができない祖父母がリビングで相撲を見ていて、部屋の中が明るくて、暖かくて、なんとも言えない安心感に包まれたこと。そして濡れた靴のなかに、祖母がいつも新聞紙を入れておいてくれたこと。

吉本ばななさんの本を読むたび、人生において当たり前にそこにあった物事のかけがえのなさを痛感させられる。あれから大人になった私は、「吉本ばなな」という書き手の恐ろしい才能を知ることになるという……、遅すぎるだろ。

とある文芸誌で彼女は、小説を書く時にストーリーを意識したことがないと話していた。書き始めた時からずっとテーマだけを書いていると。それは考え方、生き方っていうことだと思うと言っていて、すごく腑に落ちた。

そして、社会のため、人の役に立つために小説を書いていきたいと断言されていて、筆1本で生きるとはこういうことなのだろうなと私なりに思ったりもした。「ここには居場所がある」と思うような空間を小説の中に作れたらいい、そう語る彼女の作品は、平温状態の憧れとして私の中で大きな意味を持ち続けるんだろうなと思う。

そんな憧れの境地には決して辿り着けないと十二分に理解したからこそ、自分の書いた文章をZINEとして形にしてみたかったというのがある。冒頭に書いた「諦めの先にこそ本番が始まる」という言葉そのままに。正直、もっともっと……という気分にはならず、熱量低めに、気が向いた時に、書けばよいと。まあ、ペースを上げたり落としたりしながら、やめない、続けていくことに意味があるんじゃないかと、今の私は思っている。小さくても続けていくことって、わりと大切なんじゃないかって。別に意味などないんです。


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