日記(生きるとか死ぬとか、冷凍食品で満たす食卓とか夫のいびきとか)
ああ、死にたいなと何度も思ったことはあるけれど、それはただ単に生きるのをやめたいっていうだけで、リアルに死を想定したものじゃなかったんだろうなと、思う。
生きているのが当たり前の自分、いつかのタイミングで本当に死ぬんだけど、どう死ぬかの選択などできないんだろう。先日、大阪にある子どもホスピスを取材した記事を読んでいたら、ものすごく泣けてしまった。
「死ぬことは負けじゃないんです」という言葉がずっと頭の中に残っている。子どもを生かしたい親の強い想い。小さな心は置き去りにされていないだろうかと。
これと同様に私もいつか「高齢者」の枠組みの中で、どう生きるかという人生観や死生観みたいなものが反映されることなく、生物としての命に幕をおろすのだろうか。そんなことをふと、考えてしまった。
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先週、仕事中に参考記事を求めてネットをさまよっていたときのこと、VRを用いて認知症の症状を一人称(本人視点)で体験するという記事を見つけて読んだ。
認知症といえば、もの忘れをするとか、時間や場所がわからなくなるといった脳機能に障害が生じて起こる症状のこと。そのなかでも周りとの距離感がつかめなくなる「視空間失認」という症状は、例えば車から降りるというが状況がビルの屋上の縁に立たされ、そこから降りるように促されている状態に本人からは見えてしまうらしい。
VRの中で体験者は介助者から「大丈夫ですよ」「右足からいきましょう!」と声をかけられるのだけど、それらの対応に対して体験者はある意味「怒りをおぼえた」という。そんなこと、できるわけがないと。
声をかける側は安心してほしいから「大丈夫」と声をかける。だけど、かけられた側は自分の置かれた状況をまるで無視されたみたいで、困惑し、怒りさえ覚えたのだと。じゃあ、どうして欲しかったのかと問われると、体験者は「話を聞いてほしかった」という。
「どうしたの?」「何が怖かったの?」
そんな声かけがあれば、自分の状況を相手に伝えられたと話す。
つまりは、人と人との「対話」なのだと。
とはいえ、病気の老人になった私は、どこまで人としての尊厳を保てているのだろうか。話すこともままならなくなって、通常の会話さえも困難になりつつ中で、「対話」の価値がある人間としてみなしてもらえるのだろうか。
40代の私がいまだどこかで少女性を引きずっているというのに、老人になっても心のどこかでは今と変わらない自我を保ち続けていることだろう。ままならない身体と行き場のない心をどう受け入れていくのか、なんて。
まだ早い。今日も元気に生きられているから。
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昨日は出社の日だったので疲れて帰宅し、パルシステムの冷凍食品で食卓を満たす。
唯一、冷食じゃない芽キャベツ。フライパンで焼いて、塩胡椒とオリーブオイル、パルメザンチーズを振って白ワインを片手に食す。ついでに、娘用に購入していた串付きのフランクフルト。面倒だから魚焼きグリルで焼いたらすっかり忘れていて、ちょっぴり焦げたけど皮が柔らかくて、娘と「うんまっ」と言い合いながら食べる。これが前菜。はらぺこが落ち着いたら、第二弾。娘のためにパイシチューをチンしてお米と出す(とりあえず米を食べれば元気出るはず)。私は羽付き冷凍餃子をサクッと焼いて、ゆずポン酢と豚そぼろ高菜ラー油で食べる。ああ、美味しかった。
その後の記憶はあんまりないけど、後片付けして、風呂に入って、何かをしていた。それから22時くらいに文学フリマ用に「なんか文章、考える」といって布団の中で適当に文章書いて、そしたら娘は秒で寝ていて、寝顔が相変わらず仏像みたいだなと思って、私も寝た。
早朝4時半に目が覚め、スマホで何かをしていた(記憶がない)。
スマホのメモに「夜中、夫のいびきがうるさいとき、コホンコホンと咳をするといびきがとまる」と記す。今回noteにどうしても書きたかったのは、実はこのことだった。
長い前置き。ここまでたどり着いて読んでいただいた方、ありがとうございました。
コホンコホン