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町屋良平『生きる演技』書評(改)

この小説『生きる演技』は、長編小説ならではの巻き込む力が暴力的なまでに強く、読んだ後は心と体が硬くなってまともに言葉を発せずにいた。いまもその硬さが十分にほぐれずにいるのだが、年間で最も多忙な受験期に締切に強いられて書いた書評(文藝2024年夏号掲載)をもとに、それを大幅に改稿する形で、もう少しだけこの本を読み下すことを試みてみたい。私はこの小説を、暴力について、そして暴力という現実に対する「妥協」としての「言葉」や「演技」についての、著者の渾身の回答として読んだ。

この物語の語り手はクラスメートであるふたりの高校生、生崎陽(きざき・よう)と笹岡樹(ささおか・いつき)。彼らのクラスは、イケ組(いわゆる陽キャ勢)とその逆(陰キャ勢)、そしてその間がいるようなどこにでもあるような表面を持っていて、一方で花倉という教室に入れずに保健室登校を続ける生徒もいる。生崎は空気が読める人だけが人間扱いされるような教室で円滑にコミュニケーションすることに長けており、一方で笹岡は過剰な存在感を示すことでクラスメートから疎まれる。

ふたりは俳優として演技の経験があり、苛烈な家庭(いわゆる親ガチャ爆死)環境を生き抜いてきたという複数の共通項を持っていた。最初は互いに反発しながらも、相手の演技に惹かれることをきっかけにして、次第に唯一無二の親友へと関係を発展させる。

秋の文化祭でクラスの出し物として演劇を披露することになり、その準備が演技経験者のふたりを中心に進んでいく。その過程をとおして、疎まれていた笹岡をいつの間にか多くのクラスメートが受け入れていくことになる。戦争の惨状を描いたその演劇の本番に訪れるカタストロフィに向けて、物語は収斂しつつも拡散していく。

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「演技」といえば世間的には自分とは異なる偽者になることであろうが、もともと自分のことを偽者だと認知する人間においてはそれが反転する。偽者の偽りは本当なのだ。だから、二人にとって演技することは、汚くてキモい現実世界からの解放を意味し、くすんだ世界を明るくするものだった。演技は自分を手放すことに等しいので、彼らはカメラの前で演じているときだけ逆説的に自然な姿に戻ることができた。

笹岡は少年時代のトラウマティックな経験がまるで作り話(フィクション)のようで、自身の現実に集中できない。だから彼は演技を通して現実の現実感を取り戻そうと試みる。しかし生崎は笹岡が信じる現実自体を認めない。彼はすべてがフィクションで幻だと思っている。だから彼は、演技をとおして現実を取り戻そうとする笹岡、つまりそのようなやり方で現実というものを純に信じ込んでいる笹岡の破滅をどこかで予感している。
 
生崎と笹岡は似ているようで対照的でもある。生崎は「自分の身体だけに集中してここに生きていない」ような男の性(さが)のような自己愛的身体を持て余し、おそらくはそんな自分をキモいと思っている。それに対して、笹岡は敢えて自分の身体に対する集中を手放すような生き方をしている。生崎は自分のことを「なにもない、汚い、暗い身体、光らない身体」だと思う。そんな自分に比べて笹岡は光だと思う。でも、笹岡の方では自分ひとりでは景色がないと思っている。だから景色がなくなったら生崎の身体を見ればいいと思う。だって生崎は、闇に入ると自分では光らないけれど、耳を澄ませて聞こえる声を拾うことができるから。そして生崎のほうも笹岡がいてくれたら声が聞こえると思っている。つまり、生崎陽と笹岡樹は陰陽の関係である。その名前とは裏腹に、生崎陽は陰[(い)つき/月]であり、笹岡樹は陽である。
 
ふたりは交換し演じあう。笹岡の身体が生崎で、生崎の身体が笹岡になる。かれらどちらのものでもない意識に微睡む。相手が感じるべき何かを、知覚すべき身体を、代わりにしてあげようとする。それぞれが互いの幽霊になるのだ。幽霊になるのは官能的で気持ちがいい。「われわれ」はこうして互いの幽霊になって、誰でもない意識に微睡むことで生き伸びようとする。幽霊として生きる「われわれ」は、幽霊だからこそ、過去にこの土地に生きていた人たちのような「生きているだけでは聞こえないだれか」と繋がることができる。そして、われわれは自分の中だけの原‐言葉のようなものを想定できない以上、その自分の中の他者の声と繋がれる場に「自分の声」があるのだと認めざるをえないはずである。
 
町屋の作品における恥とは、自己疎外を経て幽霊化して生きる「われわれ」の意識である。われわれは、他者(親や過去の人たち)の規範的な意識を引き摺った劣化コピーにすぎず、主体的に何かを選ぶことなどできない。その受動性を誤魔化すために大人になる過程で言葉をとおしてコツコツと意味を積み上げていき、良心を養う。でも、そこで生まれた私の正しさってフィクションなのだ。私は「私」のままでいれたらよかったのに、それだけでは生きられなかった。「私」はすでに言葉の奥にあったはずの詩(ポエジーと人間の出会いの場)に出会い損ねたのに、それを誤魔化して捏造した物語が国家、国民、家族といった連続的な歴史性に彩られ、残虐な暴力になる。この意味では、愛も共同体も「殺意」である。そして、よかれと思って始まった良心はいつの間にか実体を喪失した主体となり、より強固なものとしての「われわれ」として立ち上がる。
 
生崎は演劇の経験を通して自身が「私」も「役」も無理な、中間しかできない人間だと気づく。そして、それって幽霊じゃんと思う。暗闇が身体を包み込むように、中間だからこその気持ちよさがあり、生崎はそれに気づいている。そして、男性的な歴史の語り(=作中の「ヒロケン」)にも、その中間的な気持ちよさ、懐かしさが混じっている。

ふたりで200%の無敵体になれたらいいのに、気持ちよくふたりで意識を微睡ませているかぎり、そんなことにはならない。だから笹岡は「恥になる」ことを選ぶ。「幽霊は恥、恥は幽霊」と言う笹岡は、「おれがおまえの幽霊になってやる」「だれかの恥ずかしい思いを上回って、もっと恥ずかしい存在になってだれかの恥におれはなる」と言って、ふたりの恥を自分のものとして把持することで「取り返しのつかないこと」をやらかす。一方、最後まで成熟しないままに生きる生崎は、オリジナルな言葉に辿り着くために、物語の最後に笹岡の言葉を自分の言葉と受け入れて生きることを選ぶ。

このときの笹岡の言葉とはいったい何だろうか。それは恥を捨てるのではなく、恥として生きる矜持である。私が「私」として走り出したとたんに、凶器として周りを撲殺してしまう「私」を引き受けて生きることである。

引き受ける? そんなことが可能なのだろうか。お前は生きるように嘘を吐いているのに? 声や語りは「身体が生きているだけで濁っていく」のに?

これについては部分的にそのヒントがこの小説には盛り込まれている。たとえば副担任の朝見。この地で起きた戦争について語ろうとすると、言葉に詰まってしまう浅見。彼はそうやって語れなさという語りによって、笹岡に感動を与える。つまり彼は語れなさを把持するというやり方で、到底引き受けられない「私」を引き受けようとしている。
 
これらの戦いを、読者としての「私」としてどう引き受けるか、もしくはどう真に受けずに引き受けるかが読者に問われている。

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※最後に「真に受けずに」と書いたのは、おそらく「男性性」と「加害」の捉え方の程度の問題としてある。『生きる演技』には、男性性の権化のような広井が登場する一方で、主人公の生崎は恋愛がキモいと思っているし、笹岡は「キスなんて興味ないくせに」と言われる。生崎はあいまいな男性性をかかえたままに加害意識が強い人物で、笹岡もやはりあいまいな男性性を持てあましてはいるものの、それを不問のままやりたいようにやる。町屋良平の小説に登場する男性の主要人物たちはことごとく男性性があいまいで、だからこそ男性同士のバディ関係が心地よく(その先に同性愛関係を想定するのもやぶさかではなく)、その効果として、昨今の弱者男性論にありがちな、男性性を反省する振る舞いをとおしてむしろ男性性の堅固さを証明するような言説を免れていて興味深い。このあたりは、いまさらながらセジウィックなどを援用しながら今後考えられそう。

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