言葉に自分を乗っ取られる
あなた、言葉に自分を乗っ取られて嬉々としてるね。(2023/10/9)
世の中がポジティブな言葉で埋まっていくというのは、それだけ許容できる認識の幅が狭くなっているということだ。(2023/10/9)
なぜ言葉を大切に扱うべきかといえば、言葉は現実をつくる力があるから…という肝要なことを国語の授業において学ぶ機会がないことを考えると、国語というより言葉の授業が必要だと感じる。ちなみに国語の授業ではなぜ「国」語なのかということすら教わらない。(2024/03/26)
⇒「言葉は現実をつくる力がある」についてはこちら
(読むのに4・5分かかります)
https://www.webchikuma.jp/articles/-/2607
中井久夫『私の日本語雑記』に、子供はまず名(詞)から覚えていくのに対し、老人は名(詞)から忘れていきそれをつなぐネットワーク(文脈)の感覚は残り続けるという話がでてくる。体感としてもなるほどそうだなという感じだが、これは大人は成熟すると言葉そのものよりもその繋がり(関係)を味わっていることを示唆していて興味深い。そうなると名(詞)は文脈の正しさを補完するものであれば何でもよくなるわけだ。
つまり大人としての成熟は名詞が「名ばかりになる」過程と切り離せず、それは物を見る目を失うことでもあるが、だからといって名が不要かといえばその逆である。高齢者のケアにおいて残酷なのは文脈を補完する名(としての物)を奪うこと、例えば住み慣れた家や手回り品を当人から切り離すことである。するとその人は自身が生きる文脈を失ってしまうのだ。(2024/05/21)
よくわからない言葉を見栄で使っているとバレるのでやめたほうがよい。でも、学生のうちはそういう見栄も大事かもしれない。子供たちが難しい言葉を実験として使っているのを見ると頼もしく思う。(2024/03/21)
自分の言葉を絞り出す練習をしている若い子たちは、いまも不思議と紙に書いてる子が多い気がする。彼らはネットにそれほど依存しておらず、頼りは紙の本だ。そういうことなのだと思う。(2024/02/07)
中高生たちの会話を聞いてると、フェミ(ニズム/ニスト)という言葉は高い頻度で笑える(バカにしていい)ネットミームとして認知されていて(その延長で日常会話でも使われていて)、これは大変なことだ。LGBTをミーム的に使う子もいる。大衆化とは常にそういう側面がある。(2023/12/11)
SNSにおける失礼な人とは、相手の言葉の中に潜む自分にとって意味不明な部分を読み飛ばして、自身が既に手にしている内容との一致、不一致点を恣意的に選択して講釈を垂れる人。そのことを通して自身のコミュニティで既に承認されている理解の鏡像を、赤の他人である相手を利用して浮かび上がらせようとする人である。引用RTを多用する人たちの多くが陥っている。(2023/10/09)
解釈というのは怖ろしいもので、相手のどんな言葉や行動からも悪意を取り出すことができる。世の中のいじめの多くがそれを原料に成り立っている。いじめに加担しないというのは、まずそのような悪意のある解釈に乗らないこと。独善的な解釈を通して簡単に気持ちよくなる自分を諫めること。(2023/07/17)
現代の差別や人権といった倫理に関わる言葉がカタカナ語だらけなのは、日本独特の文脈を形成できないままに(主に)米語をそのまま移入して使っている証。このまま移入し続ければ、抗菌剤が見境なく細菌を壊してしまうように、カタカナ語が個々人を壊し、社会をダメにしてしまう。ネット上でなくて現場で触発されながら独自の文脈を構築する努力をする人が増えないとどうしようもない。(2023/12/06)
自分の言葉を絞り出す努力をせずに、テンプレで差別反対を訴えることがいかに差別的構造から免れていないかという批判は10年後くらいには常識になるのだろうか。(2023/05/29)
ある事実に名前を与えると、その名前が原因であるかのように振る舞うようになるが、名前はせいぜい隠喩に過ぎない。だから、最近になって名付けられたものに対しては特に、それを便利な道具として使わないようにするという礼節が守られなければならない。
確かに、新しい言葉が与えられることで世界がポジティブに変化してきた側面もある。でも、その名前が原因であるかのように振る舞うようになったときに、名前の歴史性が隠蔽される。言葉は形骸化して死に至る。(2023/10/13)
私の思っていたことを言語化してくれた、という好意的な感想がありますが(私もそう思うことが多々あります)それはあくまで私がそう思いたいのであって、実際には「私の思っていたこと」と言語化されたそれとの間には大きな隔絶があると考えるべき、それが敬意だと私は思っています。(2022/04/04)
相手に心を込めた謝罪をすることで相手の尊厳を踏みにじる人がいる。相手は曲がりなりにもあなたの言葉を通して新たな現実を受け入れたのに、謝罪することでせっかく引き受けた現実がまた壊されるのだ。(2024/05/11)
私たちは誰でも多かれ少なかれ、他者を「使用」することで主体化を実現します。私たちが使っている言語さえ、もともとはすべて他人から与えられたものであることを思い返せば、他者を使用せずに主体化するなんて、どだい無理な話だということに気づかされます。
「推す」行為は「推し」を通した刹那的、情動的な主体性獲得の運動であり、まさに推しを「使用」する運動なのですが、このことに自覚的でない人もいます。推しを推すときに、人は推しの輝かしさだけでなく、推しのずるさや不完全さを自らの主体に一致させることを通して不甲斐ない自分を愛でています。しかし、そのことに無自覚になり、推しが使用できなくなったと感じた瞬間に、推しに対して攻撃的になることもあります。推しがまるで自分の主体化を妨げる存在のように感じられて憎み始めてしまうのです。 敵をあえて作り出して鏡としての自己を権威化することで主体化を果たしたにもかかわらず、言い換えれば、敵という他者を使用して主体化を実現したにもかかわらず、そのことを隠蔽してしまうのがレイシズムの問題だとすれば、「使用」に無自覚なファンたちは、「推し」が私の主体化を支えてくれたという事実を忘却することで、易々とレイシズムに近接します。(2022/03/06)
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