恋人よ
退職が決まっていた先輩が亡くなった。
私よりずっと若い。
私が8月に入職してから、ほぼ常に隣にいる人だった。
若いけれど物知りで、真面目で、気が合った。
同じ職種は彼だけだから、必然的に仕事を教わるのは彼。
自分のことを語ることはほぼないが、聞き出すように聞いていた。
私も自分のことを沢山話した。
離婚して一文無しになったこと、料理が下手で失敗したこと、お酒が苦手なこと。
ゲームが好きなことを話したら、お互いにRPGが好きなことがわかった。
旅行や甘いお菓子が好きなことも分かった。
猫を飼っていて、猫が好きなことも分かった。
他の同僚は長年勤めていて、先輩ともお互いに人となりがわかっているけれど、私は入ったばかりで何も知らないわけだから、一つ一つ彼を知っていくことが、楽しかった。
彼が退職することが決まって、期限が切られた。
学ぶことは引き継ぐことに変わり、まだまだ覚え切れないことが沢山あるけれど、なんとかメモに残していくことだけを考えた。
私はパソコンだけはなんとかできたから、操作の説明は彼からすれば割と楽だったと思う。
彼は私がやりやすいように、パソコンのデスクトップに一覧表やショートカットを残してくれた。
仕事中の雑談で、ポルノグラフィティのサウダージが好き、という話をした。
前回話した通り、私には離婚した夫との生活とこの歌を重ねて、この曲は思い入れ深い曲の一つになっている。
そんな話は、彼にはしなかったけれど。
後でゆっくり、話せたらいいなとは思っていた。
退職まであと数日というところで、彼の訃報を聞いた。
ずっと隣にいた人が、いなくなった。
長年の仲間たちは、仲間同士で涙を流した。
新人の私は、どうしていいか分からなかったけど、気遣うように来てくれた同僚と、一緒に涙を流した。
分担していた仕事がまとめて飛び込むようになり、彼を指名する電話も彼に回せず私自身が担当するようになった。
仕事に身が入らない。
でも仕事は待ってくれない。
期限のある仕事が容赦なくやってくる。
溺れないように、もがくように、捌いていくしかなかった。
お葬式の日が決まって、その日は公休だった。引き継ぎをしっかりできるように、なるべく一緒にいて、同じ日に休めるようにと配慮してもらった、彼と最後の公休。
平日だったから、参列出来ない同僚が沢山いたけれど、遺族や上司の気遣いで、私も参列させてもらえることになった。
コロナの影響もあって、小さい式はオーソドックスになりつつあるらしい。
通夜も告別式も初七日法要も、全部合同の式。
私がよく行くお年寄りの葬式と違って、喪主は子ではなく父親だったし、兄弟は若かった。
花が沢山あって、スーツやお菓子が供えられていた。
甘いお菓子がたくさん。
スイーツのお店、詳しかった。
革靴のインソールには、猫の毛が沢山ついていた。
お父さんもお母さんも、挨拶は言葉にならなかった。蓋を閉める間際になっても、離れられなかった。
私も、涙が抑えられなかった。
失礼とは思ったけれど、アナウンスで促されたのをきっかけに、お顔に触らせてもらった。
冷蔵庫に入れられていたんだろう、ひんやりして冷たかった。
色白だったから、顔色が悪いのを隠すためなのか、濃いめのドーランで血色良く見せているようだった。特徴の泣きぼくろがほとんど見えなかった。
顔を見て、なんて言おうかと、言葉を沢山考えて来たけど、やっぱりいい言葉は出てこなかった。
棺にスーツを入れて、ジュースを入れて、お菓子を入れて、花を入れて、それから、利用者が画用紙で折ったひまわりの花やアジサイ、同僚が作った折り鶴や寄せ書きを入れた。
折り鶴は訃報を聞いてから職員が折ったものだけど、花の飾りはずっと前に利用者が作って壁に飾っていたものだ。利用者は彼の死を知らない。何も知らない利用者の作品を、彼への餞にいただいて来たことを、遺族にも伝えた。
最後のお別れをさせてもらって、気持ちが晴れるかと思ったけれど、そうでもなかった。
職場に帰って来て、参列させてくださってありがとうございましたとみんなに挨拶しているうちに、私の我慢も限界を超えた。
大人げも恥も外聞もなく、声を上げて泣いた。
バックヤードだけど、多分利用者のいる部屋にも聞こえていたと思う。他部署の同僚が私の体を支えて、抱きしめてくれた。
これから一人でやらないといけない。他の人は協力すると言ってくれているが、あくまでも協力だ。これからは自分が名前を出して、責任を持ってやらなければいけない。心細さに泣いた。
毎日のように一緒に残業する彼の姿を思い出す。彼がいるから遅くまで残業しても安心感があった。
今までの職場と違って、建物に誰もいない時間もある。私一人が残ることは、防犯上不安だと言うことは、上司にも彼にも話していた。入ったばかりの私に対する負担を考えて、上司と彼が色々と話し合っていた。
膨大な引き継ぎは、大凡2/3になった。1/3は他の職種に引き継がれた。
そうやって、彼は、引き継ぎを終えて世を去った。
同僚が作ってくれたコーヒーを飲んで、私は気持ちを落ち着けてから帰宅した。
礼服は、遅い昼食後にクリーニング屋に預けて来た。お風呂に入ったら眠気が襲って来たから、ちょっと横になろう。そう思って布団を敷いた。
葬式でも職場でも沢山泣いたから、胸が苦しいのが消えた。でも帰宅したらまた喪失感が込み上げて来て、苦しくなって来た。
と、思ったら、ふっと気持ちが軽くなった。
押し寄せていた喪失感が急に消えて、幸せな気持ちが溢れた。
ついにおかしくなってしまったのか。
私の中で、喪失感とか虚無感が消えて、彼の浄化された魂と私の心が一つになった喜びを感じた。
多分、彼がお空へ旅立ったときなんじゃないかと思う。
どういう感覚なのかはまた今度。