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働くことの本質

 目的と手段を取り違えることは多い。その代表的な例がお金についてだろう。手段だったはずのお金が目的になり、お金を増やすことが大切だという風に変わってしまう。そのお金が何のためにどうして必要なのかはさておき、とにかくお金が目当てになってしまいがちだ。

 仕事についてもそういった面があると最近思う。
「働くこと」のことを仕事と言ったはずなのに、仕事のための仕事になりがちだ。「働くこと」の本来の意味は、社会の共助でありお互いがお互いに「働くこと」を提供しあうことによって社会が成り立つ。ところがいつの間にか、そうした理念から離れて、仕事や会社といった何かが人々の心の中に存在するようになる。これは特に勤め人に顕著だ。会社に時間を預けてその見返りとして金銭を授受するという契約事を仕事と呼び、そこには社会と人との関係性が入る余地は無いことが多い。

 エッセンシャルワーカーという言葉を聞いたのはコロナ禍が初めてだった。何でも必要不可欠な仕事のことを言うらしい。一時流行った不要不急との対比なのだろう。何があっても働いて貰わないとその他大勢の人が困ることになる仕事ということだったと思う。
 エッセンシャルという言葉の元になっているエッセンスという言葉なら過去にも聞いたことがあった。「存在する」という意味のラテン語「エス」が語源で、今では「本質」という意味で使われている。そうすると、エッセンシャルワーカーというのは本質的な仕事をする人、私たちが存在するのに必要な仕事をする人ということになろう。

 良く考えてみれば、この世の中に必要不可欠でない仕事など無かったはずだ。仕事があるから社会が回るのではなく、社会を回すために仕事があるはずで、もしエッセンシャルでない仕事があるとするなら、極論を言えばそんな仕事は必要無いということになる。
 災害が起きた時などにミュージシャンらが、自分たちが歌うことは社会に必要なことのか自問自答していると聞いたことがあった。きっと社会にとって必要不可欠では無いのではないかという気持ちが心のどこかにあったのだろう。要は遊びみたいなことを仕事にしていると(思われているのではないか)という思いが。
 しかし歌唄いだって社会に必要な仕事だということは証明された。

 大切なのは、仕事をすることで満足してしまうのではなく、その先にいる人や社会をイメージ出来るかどうかではないだろうか。
 どんな仕事でもエッセンシャルワークであり、一人ひとりがエッセンシャルワーカーであるということを忘れずに、仕事が目的ではなく手段であることをはっきりと見据えて働きたいものだ。
 そうすればきっと良いことがある。

おわり


 

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