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Netflix『新聞記者』

 明らかに森○学園問題がモチーフになった作品だ。
 本作品は実際の新聞記者が書いた同名の著書が原作となったドラマ。過去には同じ監督で映画化されている。
 事実とあまりにも違う点が多いと炎上しているようだが、ここでは私の視点で作品について感じたことを記したい。

 どんな仕事でも、始めた頃の志はいつしか薄れ、会社や組織の中で泳いでいくうちに、すっかりそこに染まってしまっている自分に気づく。それでも、仕事が生活のための収入源である以上、守らなければいけない家庭がある以上、組織の都合に背くことよりも自分を騙してでも従うことを選択することが当たり前になっていく。

 何のためにその仕事をしているのかなんて疑問は青臭いと言われ、もっと組織のことを学べ、上手く立ち回れと諭される。そうしていつか、正義か悪かは重要な判断基準ではなくなり、上の指示で与えられたことを全うすることが努めと言い聞かせるようになる。

 だから、自分ごときが何をしても変わる世ではないし、社会や政治には興味をもったところで仕方が無い。変えなければいけないことは分かっていても、それが出来ない理由を積み上げることに夢中にならざるを得ない。

 そんな私たちの日常を考え直すきっかけになったとしたら、この作品の意義は果たしたと言えるだろう。
 無関心になることで、知らないところで勝手な都合で決められてしまう不都合があることを改めて認識し、社会を作っているのは自分であることを再認識する。そうなったとすれば、作者の想いは達せられることになるだろう。

 しかし一方で、現実問題としてこれがなかなか難しい。
 ドラマに登場する官僚や政治家達を見て酷い奴らだと思いながらも、普段の自分を思い返してみると批判的精神に自信を失う。
 大志を抱いて始めたはずの仕事はいつの間にかただのルーチンワークになって、休日を待ち侘びるだけの時間つぶしになっている。口では大きなことを言いながら、大したことを成し遂げられていない自分から目を逸らす言い訳をしている。

 現実に起きたことを連想させることの多いストーリーは、これがフィクションですと言われても容易には受け入れられない。これは本当の話だろうかという疑問がずっと付き纏う。それでいて、新聞記者の米倉涼子や官僚の綾野剛、新聞配達の横浜流星らの存在は明らかにフィクションでしかないから頭が混乱する。
 フィクションならもっとフィクションらしい作品にした方が問題にはならなかったであろう。見る側がもしかしてこれはあの問題を取り上げたものかと錯覚してしまうとしたら、騙しと言われても仕方がない。

 もし新聞記者が社会に蔓延する欺瞞を見抜いて明るみにすることが出来たとしたら、私たちの生活は少しは変わるかも知れない。社会の闇に光を当てて、皆に気付かせるのがマスコミの仕事とも言えるだろう。
 ネットが中心の世の中になって活字離れが著しい今の時代、これからの新聞がどうあるべきかという質問に、彼はどう答えたのか。
 その質問は新聞記者を志望する若者のみならず私たち全員に向けられている、本来の新聞記者的なスタンスを失うなというメッセージのように思えた。

おわり

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