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生産性を高めろというのは何故か

 今のビジネスの世界では生産性という言葉がブームになっている。
ここに来て生産性、生産性と連呼されるのは何故だろうと少しは思っていたが、生産性が高いことに越したことはないとは思うので、深く考えてはいなかった。効率的に仕事をこなして生産性を上げる、結果に繋がる仕組みを作って生産性を高める。ビジネスにとって当たり前のことだ。
 海外との比較で日本の生産性が低いことや、少子化によって労働人口が減ることを考えれば、生産性を高めなければいけないということには違いない。

 理系の私はこれまで経済学を教科書的に学んだことは無かった。
そんな私が『最新版アメリカの高校生が学ぶ経済学』( WAVE出版)を読むと、最初の1ページ目から目からウロコの内容で、高校生の頃にこの教科書で学んだとすれば経済についてだいぶ違った印象を抱いただろうなと思わされる。
 何しろ、なぜ経済学を学ぶ必要があるのか、経済が何によって成り立っているのかといったことから説明が始まっている。つまり説明が実践的かつ原理的概念的なのだ。アメリカの高校生達が、この教科書を読み進めながらクラスで議論している様子が目に浮かんでくる。

 この本で「生産性」という言葉が登場するのは、第一章の基本的経済概念の説明の中だ。希少な資源が効率的に活用されているかどうかを示す言葉だという。
 そう、この本の冒頭では、限りない欲求を満たすために希少な資源をどう利用するかを考えるのが経済学だというような説明がある。だから、資源の効率的活用を意味する生産性は経済学の要となる考え方なのだ。
 そして、生産性を追究したその先には「経済成長」がある。
 生産性が高くなることによって、同じ資源からより多くが生み出されるようになるのであって、これを経済成長と呼ぶのだ。

 企業において前年よりも高い売上目標がノルマとして課され、前年以上の利益を上げることが求められるのは、経済の本質の表れということだ。
 生産性を高めて経済成長を継続することこそが経済だとこの本では解説されている。

 正直言うと、この本の冒頭に出てくるこのような経済感、つまり成長し続けること正義というような考え方について私はずっと違和感があった。
 人間の持つ無限の欲望を満たすためには資源利用効率をより高めていく必要があるということは理解出来なくはないが、そもそも無限の欲望があるとう前提はどうなんだろうか。自ら省みても、果てしない欲望を否定する根拠は見当たらないが、欲望を増幅させているのは人の内から自然に生まれてくることというよりも、経済活動がそう仕向けているのではないかと思うことがある。福袋に群がる人を見ると、人の欲望をことさらに刺激して欲望を煽るようなことが行われているように思う。
 成長を続けなければならない社会に疑問を呈しているのがサスティナブルという考え方であるはずだが、実はこれも少し違うと思っている。持続可能にするためには資源をより効率的に使う必要がある。この効率性という観点で言えば、これまでと変わらず、ただ言い方を変えて見栄えを良くしているだけだ。無限の欲望という前提を考え直すという点が欠けているように思うのだ。
 どうしたら私がAmazonの「カートに入れる」ボタンを無駄に押さずに済むのか、どうしたら私がAmazonのサイトを見ずに済むのか。Amazonを見ている限り欲望は増幅され続けるのだ。そして、残念ながら私自身もそれを欲している。

 少なくともこの20年間、日本では経済成長が停滞していると言われる。
 だからこそ生産性の向上が高らかに唱えられるのは分からなくはない。経済学的に見て、経済成長しない経済は経済的ではないからだ。経済学の神々はきっと「ゼロ成長だなんて日本は一体何をやっているのだ!」と苦虫を噛み潰したような顔で言っているに違いない。
 しかしだからと言って、経済学の実践によって行き着く先が欲望を煽ることでしか成長が継続出来ない社会だとするならば、経済学は欲望を満たしてくれるのではなく、満たされない欲望を増やすことにしかならず、私達は不幸にしかなれないのではないだろうか。
 人の命を優先するのか、経済を優先するのかといった二者択一の議論が未だに聞かれるが、思考停止した者達への誘導尋問に近い気がしているのは私だけだろうか。

おわり


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