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余韻があった方がいい

 それが小説でも映画でも、物語が終わった時にそこに残る余韻を楽しめる。私はそんな作品が好きだ。

 最後の句点が打たれたその先に広がる空白を前に静かに目を閉じる時、微かに震え続ける胸の中の弦から放たれた波が身体中を満たしていくのを感じる。物語にじ込められた作者の想いが私の心と共鳴したようにも思える瞬間だ。
 それはさながら、物語からにじみ出た雫のようなエキスがじんわりと浸透してくるような感触でもある。あぁ、と心の中で思わず声が漏れてしまうようなエクスタシーの瞬間でもある。


 人の心は、アンプとは違って自分の意志ではボリュームを落とせない。だからノイズに満ちている。
 何かに集中した時にだけボリュームレベルが下がり、何かに共鳴したときだけその周波数の音圧レベルが高まってノイズフロアを突き破る。誰かの声を聴きたい時だけノイズゲートが働いてその声だけが聞こえる。
 自分では制御できない心のボリュームだけれど、コントロールするノブは確かに存在する。

 共鳴は同じ固有振動数を持つものが空間を超えて伝わり合う現象。心の共鳴は空間のみならず時間をも超えることが出来る。小説や映画はその為の媒体となる。
 共鳴は共感とは違う。
 共鳴は共感よりももっとプリミティブで直截ちょくせつ的な体験だ。どちらも他者と心が通じ合うようなことではあるが、共感の主体が自分にあるのに対し、共鳴の主体は他者にある。共感するのはあくまでも私で、そこには意思が伴っている。なるほどね~、という距離感と余裕を保っていられる。
 それに対して共鳴は、有無を言わさずさせられてしまう。遠くから飛んできた矢がいきなり肉を突き破って心臓に突き刺さるようなものだ。防ぐ手立てはない。ただし固有振動数が一致しない場合は無音だ。何も感じない。

 作品と自分の心が共鳴した場合、そこには感動が生まれる。
 余韻も感動の一種だが、それは共鳴の残響のようなもの。適度にウェットなリバーブなのだ。

おわり

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