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あなたから見えるもの

 学生のあなたから見えているものと、社会人から見えているものは違う。

 例えば、高い建物やタワーの展望台から見慣れた生活の場を眺めてみたことがあるだろうか。上からの眺めは、どのように見え、どのように感じるだろうか。あるいは飛行機に乗って機上の窓から自分の住んでいる家を探してみたことがあるだろうか。

 上からの景色を見ている時、あなたは決して「上から目線」で見ている訳ではないが、同じ街の様子が地上にいた時とは全く違って見えるだろう。
 地平線で区切られた空と街が遥か彼方まで連なり、圧倒的な大気のボリュームが足元の暮らしとは異次元の静けさを保っている。
 周りはこんな風になっていたのかとか、あの場所は意外と家から遠くはなかったんだなとか、歩いている人、動いている車はこんなに小さく見えるんだとか。広大な土地が広がっているなとか、この風景の中には沢山の人の生活と人生があるんだなとか、自分は小さな存在だなとか。

 社会人から見える景色のことを私は「社会人の地平」と呼ぶ。同様に学生から見える景色は「学生の地平」。
 学生の地平と社会人の地平は交わらない。
 例えば学生がタワーマンションの3階の部屋だとする。そして社会人が25階の部屋だとする。社会人の方が学生よりも広い範囲が見えているし、地上からより遠いため俯瞰して見える。どちらもエレベーターで地上の降りられるので、どちらがより地に足がついているとかいないとか、そういう問題にはならない。

 大切なことは、人間としてどちらが上とか下とかいうことではないということだ。ただ単純に見えている世界が違い、見え方が違い、つまり感じ方も違うということだ。部屋から見える近所の寺を見た時に、学生の部屋からだと隣家の向こうに寺の屋根の瓦の一部が見えるだけだが、社会人の部屋からだと境内を歩く参拝者の様子が見える。ああ、今日は参拝者が多いなぁ、何かイベントがあるのかなと思うこともあるだろう。だからといって社会人が偉いということではない。見えているものが違うだけだ。

 仕事について考えてみよう。
 学生が見ている「仕事」は実際の仕事のごく一部だ。先ほどの例で言えば寺の瓦だ。寺の境内の様子を想像することは出来ても実際どうかは分かりようがない。
 逆に社会人について言うと、実は学生同様の見えていない問題がある。つまり、学生がどう見えているか見えていない。過去には自分が経て来たはずの道であるが、一度25階からの景色を見てしまうと、3階から何が見えていなかったのか想像することは難しくなるのだ。

 お互い地平の違う学生と社会人が、ひとつの空間を共有して言葉や表情をたよりに探り合うのが面接だ。本来交わらない両者の地平が交わるのは、平面を超えたもう一つの次元を見出せた時だ。
 地平を飛躍する異次元トンネルを見つけられなければ、たとえ就職したにしても、いつまでも学生気分が抜けない奴と見られかねない。

おわり

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