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運命のつづき

先日、運命の話を書いた。

ああ、あの失敗が無ければ俺は、とか、あの時の選択を間違えたな、とか、はたまた、何処で私は道を間違えたのか、なんて思うことは普通の人であればいくらでもあると思う。
要するに失敗の歴史の分岐点みたいなものだ。

逆に、あの時あの人との出会いがあったから上手く行った、とか、何となく何時もと違う電車に乗ってみたら普段乗っていた電車は人身事故で大幅に遅れていた、とか、カーナビの指示を見誤って道を間違えたが、間違えてなければ崖崩れに巻き込まれていたといったラッキーなことも意外と良くあるものだ。気づいていないだけということだってある。

運命を信じるとすれば、それらは予め定められた運命であって、取り立てて不幸でも幸運でも無いはずだ。
人は自分の人生をコントロールしようとするものだから、思い通りに行かなかったり、予想以上の展開だったりすると、特別に不運に見舞われたと感じたり、何か特別な事が自分に起きたと思いがちだ。

でもそういった事は皆、当たり前に起きた事で、何ら特別なことではない。運命で語るのであれば。

運命のことを、神のお導きと言ったりする事もあるが、そこに絶対的な神という存在を登場させるまでもなく、あなたは運命のままに生かされていると言えば良い。

生きているのでは無く生かされていると言う感覚が、「誰に?」と言う疑問を導いて、「神に」と言う主語が必要になったのだとしたら、それは言語の限界点を示しているに過ぎない。所詮、言語で全てのことを記述することは出来ないのだが、出来ると錯覚しているとそういう事になる。
運命に主語は必要ない。

どうせ運命が決めるのだとしたら、どんなことが起きようとも、ただ淡々と過ごす他ない。
それは諦めとは違う。諦めというよりも受け入れと言ったほうが近い。
とは言え、現実を受け入れることは時として辛い。受け入れがたく逃げたくなることもある。それも含めて運命だとしたら、人生を悲観しか出来ないこともあるだろう。

でも、運命に理由は無い。
だから、何故こんなことに? と問うことは意味がない。
運命という言葉を、あなたの人生を決めているものという意味で使うのだとしたら「運命」という考え方すら幻想だ。運命が決めているのではなく、決まっていることを運命と呼ぶに過ぎない。
運命は未来予想ではなく結果論だ。

ただ、生きる。
生きていれば、明日が来る。
明日になったときまでに起きたこと、それが運命だ。
つまり、今いるあなた自身が運命そのものを体現しているということだ。
実はそれだけのことだ。

おわり


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