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阿吽の呼吸

 阿吽の呼吸、言わずもがな、行間を読め。
 日本では言語外によるコミュニケーションが重用されてきた。言葉で表現することよりもむしろ、言うのは野暮という美学があった。 

 それと同時に、日本語を喋れない人をあからさまに排除し、未だに多くの場面で日本語を使うことを強要している。

 これらのことは、日本流のコミュニケーションの在り方を良く表している。
 つまり、閉鎖的なコミュニティの中で、共通体験を通じて得られた共通理解を基礎とすることで言葉による殆どの情報伝達を不要とし、僅かに残る情報不一致な上澄み部分の伝達に言語を使うという習慣だ。
 元々分かり合っているという前提のため、そこで交わされる言葉は意味を持つ必要はあまり無い。主たる言語コミュニケーションは、同じ時同じ場所に居るということの再確認と感情共有に使われる。

 そのような暗黙的な共通理解を前提とした小さなコミュニティでは、異物や異分子を排除しようとする力が強力に働く。異なる意見や考え方は共通前提をなし崩しにするものであり、それはすなわちコミュニティの存続に関わることだからだ。

 面白いのは、確固とした共通前提があるからこそ成り立つはずのコミュニティが、それでいながらその共通前提は少しずつ変化し続けるという流動性があるということだ。流動性を与えるのは、コミュニティ内を流れる空気だ。だから空気の流れを読めないということは、共通前提を見失うことにほかならない。見失ったが最後、それまでのコミュニティ内での立ち位置がどうであれ、その小集団での異分子であることが確定してしまう。つまり粛清の対象者となる。

 もっとも、小集団でのこのような異分子粛清といったことが起きるのは日本に限ったことではない。日本特有なのは、本来は小集団という限られた空間内で起こるこうした事が、全国的な規模で起きている点だ。それは日本が人種的民族的に多様性が低い(と思われている)仮想単一民族国家であるためだ。

「このくらいのことは言わなくてもわかるだろう」というセリフが成立するのは先進国の中では日本くらいなもの。他の国では他者との情報ギャップを埋めるためにこそ言語コミュニケーションが使われる。
 だから、言語による伝達は的確かつ論理的であることが求められる。少なくとも言葉で説明することは努力目標ではなく、権利主張するための義務である。

 共通な前提を持たない集団間で円滑なコミュニケーションを行うためには、言葉による説明と理解が不可欠だ。それと同時に、単なる舌戦にせず一定の結論を見出す為の議論のお作法を理解することが必要だ。
 以心伝心だけに頼っていては危険なほどに、人と人との距離が遠くなっている社会に生きるのは厄介なことだ。

おわり


 

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