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【読後想】『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』★★★★☆

夏休みの宿題で読書感想文が苦手だったけれど、感想でも書評でもなく、想ったことを勝手に書き留めるだけなら出来そうだということで記録する読後想。

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結婚して25年になるが、妻との会話が微妙にすれ違いとなるのは、オスとメスという生物学上の違いに由来するものと思っていた。
もっとも、そう言いながらも薄々気付いていたが、理系学生のくせに哲学系の教授の元に通って同好の士との議論を楽しみにしていた過去を持つ私は、どうやら妻との会話を<対話>に持ち込もうとする癖があったようだ。

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そんな私が選んだのは、これ。

中島義道(著)、『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』(PHP新書)

私が図らずも妻に挑んでいた<対話>とは次元が違っているが(そもそも妻に対して<対話>を挑むのが間違っているが)、筆者は方々で<対話>を挑んで摩擦を起こしている(ように描かれている)。

描かれている過激な内容に反して、筆者は生活の全ての場面で<対話>が必要とは更々思っていないようで、日本各地で日々繰り広げられている会話の中に、少しだけ<対話>という調味料を振ることで、会話の質が変わり、物事の見方が変わり、いろんな違った考えや特質を持った人々が活き活きと暮らせる社会になることを期待しているのではないか(私の見当違いかもしれないが)。

余程の信念があるか、余程の変わり者でない限り、筆者のような生き方は出来ないというか、生きづらくなるだけのような気がするが、まあまあの変わり者と自認する私には共感できる部分も多く、行動に移すことが出来る筆者のことが羨ましくもある。

という訳で、私の評は★★★★☆。
星がひとつ欠けているのは、5つ星にして私が中島教信者と筆者にバレたりすれば、きっと嫌な顔をするだろうからだ。

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その昔、西洋から「個人主義」が輸入された際に撒かれた種は、日本的風土の中で芽を出し、すくすく育つ過程を経て和風個人主義へと昇華していった。
「個人主義」という単語を使いながら巧妙に和風と融合し、西洋近代型個人主義とは単語だけ似ていて実は非なるものとなった。

私は常々、周囲で目にする個人主義という言葉と実態との間に違和感を持ち、(こんなことを真顔で言うと白い目で見られること必至であるが)「絆」や「思いやり」、「日本的ホスピタリティ」といったような言葉にどこか居心地の悪い感じを抱いていた。

違った考えを持った人を押しつぶそうとする日本社会の見えない空気。同調することを好しとして、目上の人に異なる意見をぶつける度に感じる周囲の厳しい視線。実の無い挨拶のお言葉に笑顔で拍手することを強要されるカンジ。

どれも私が不得手とするところだ。

ダイバーシティなんて言っておきながらLGBTという単語を持ち出して差異を強調する。女性活躍社会と言って男性との違いを無意識に意識させる。我が社は女性を役員に登用しましたなんて平気で言う。「障害者」と枠で括って「健常者」から遠のける。

こういったことに違和感を抱きながら、この感じをどう表現して良いか未だに私は分かっていない。

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「みんな」という概念に縛られた和風個人主義のもとでは、「日本的会話」はあれども<対話>は自然発生しない。
違っていて当たり前という社会を望みたいと思っているものの、<対話>が出来ない我々にはまだ時期尚早ということだろうか。

私がこれまでうっかり妻に挑んでしまっていた<対話>が役立つ社会になれば、妻との仲はもっとスムーズになるのに。

おわり

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