見出し画像

治安の良さとムラ社会|日本の和と輪の話

鍵のかけていない自転車が盗まれた事件を、防犯カメラ映像と共に紹介するニュース。
私がこのニュースで引っ掛かったのは、盗まれたのが鍵を掛けていない自転車だったことだ。
人の物を盗むのは悪い事に違いない。
鍵をかけていても盗まれるときは盗まれる。
でも、鍵をかけていなければ盗まれるかも知れないことは容易に予見できるのであって、盗まれることを強く意識しなければならない。
盗まれる方にも非があったと思うのは私だけであろうか。

画像1

来日した外国人が驚くことの1つに治安の良さがある。
置き忘れた財布が置き忘れた場所にそのまま置かれていた。
電車で眠っている人が多い。
あちこちに自販機が置かれている。
日本はなんて治安が良いんだ、と。

実際は、置き忘れた財布が戻って来ない事はいくらでもあるし、電車で眠っていて貴重品を盗られる事はあるし、自販機は沢山壊されているから、日本の治安が良いと言うのは都市伝説に近いものなのかも知れない。

外国の大都市に比べてと言うことであれば確かに日本の街は格段に治安が良いのかもしれない。それだけ海外では安全に対する構えが必要というものだ。
ひとくくりにするのは危険だが、海外では日本に比べて略奪する事に対する意識的ハードルが低いとでも言おうか。
考えて見れば、西洋の世界進出の歴史は略奪そのものだ。狩猟が生活の中心という文化故だろうか。
何ら詳しい訳では無いが、海外であっても農村はまた違った趣なのではないだろうか。

これだけ海外とやり取りし行き来するようになった現代でも日本人の意識は鎖国に近く、日本国内では日本的なものに守られていると思い込んでいる気がする。日本人にしかわからない何かが好き過ぎないか。

義理人情、阿吽、侘び寂び、忖度、思いやり、絆、そして日本語という言語。

治安の良さも含めこれら日本的なものを支えているのは、みんなの目という監視社会だ。
他人の目を意識して空気を察し協調性を乱さない行動が良しとされ、その先に和(輪)が形成される。

和で守られた内側は、ある種の拘束がある代わりに安全が担保される。外側は徹底的に排除されるからだ。

日本を訪れた外国人は決して輪の中に入れないが、その代わりにお客さんとして扱われる。
ただし境界線の周辺をうろつくお客さんを攻撃するのでは無く、むしろ歓迎している風を装って気持ちよく追い返す。それはホスピタリティなどではなく日本的防御機構だ。

外国人のことをつい外人と言ってしまうのも、ガイコクジンという言葉が長いからではなく、輪の外の人だからだと思えて来る。

画像2

今でも都会以外では、輪の中では家の鍵を掛けていないのが普通だ。
外からの侵入者がいればすぐに分かる地域社会のセキュリティシステムが備わっているからで、もし何かを盗んだりしようものなら村八分にされ和から追い出される。
輪の外は他の輪の内側に他ならず、追い出された者は外人としてか、もしくは浪人として暮らさざるをえなくなる。あるいは藪の中に身を潜めて目立たない様にする必要がある。つまりは日本社会から抹殺される事になるのだ。

かたや都会では、輪が限りなく小さくなって、家族(核家族)やガッコウやカイシャやトモダチという別の小さな輪が多重に重なりあって、個人は複数の輪に跨って生活している。

画像3

鍵を掛けていない自転車を盗まれたというニュースは、輪の中(ムラ)での出来事であれば内部犯行である限り、世間のニュースにはならない。なぜなら、外部に汚点を漏らすようなことは許されないからだ。その代わり、隣ムラの人間が犯人であれば戦争になりかねない。
同じニュースが小さな輪の集合体である都会での出来事であれば、輪の外からの脅威が起こり得るということを思い出させるエピソードのひとつということになろう。輪の外の脅威に対抗するために強いて取り上げる必要があるというニュースバリューが発生するのだ。

もし輪の存在を考えなければ、盗んだ方はもちろん悪いが鍵を掛けていない人も悪いじゃないか、というスタンスが報道に滲み出てもおかしくないと思うが、この「安全で平和な」日本ではそんな報道の仕方はされない。
いまのところは、和(輪)という一種のムラ社会の意識から解放されることに伴うリスクより、中での温もり(安全性)の方が優位ということだろうか。

おわり

<サムネの画像は以下のサイトから拝借たものを使用しました>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?