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対面コミニュケーションで交わされる情報

 人が対面で伝える情報と、それ以外の方法で伝わる情報は違う気がする。その違いは情報の量ではなく、伝えることのできる質が違っている様に思える。いや、質というのでは弱く、次元が違うとでも言えばよいだろうか。

 対面以外の方法と言えば、電話、手紙、ファックス、メールなどがあるが、今では多くの人がメッセージアプリを利用するのが普通だろう。つまりコンピュータ・ネットワークを介したツールを利用しているということだ。
 人と人が実際に会って交わす情報を『情報』と呼ぶとすると、コンピュータ・ネットワークを伝わる情報は『情報』ではない別の何かだ。このようなネットワークを流れる情報をここでは『情報』と区別する意味で[情報]と書くことにしよう。

 ネットワーク上を行き交う[情報]は主に文字情報であって、文字情報は記号である。『情報』から様々な属性を取り去り、スリム化され抽象化されたものだ。だから事務的な要点を伝えるのには適しているが、対人コミュニケーションの道具としては物足りない。その物足りなさが故にそれを補う目的で無意識的に絵文字やスタンプが使われるのだろう。

 しかしいくら絵文字やスタンプで補ったとしても、核となるものが『情報』からいろいろな要素を切り捨ててしまった後の[情報]である以上、もともと伝えようとしていた『情報』は伝わらない。つまり対面の交流で交わされる『情報』は、対面以外の方法では伝わりようがない。
 MP3で符号化された音楽ファイルが元のハイレゾ音源には戻らないように。

 今の我々の日常が既にそうなっている懸念があるが、[情報]交換に慣れ、[情報]のやり取りを突き詰めると、世の中の情報が全て[情報]で出来ていると思い込んでしまうようになるのではないか。[情報]のやり取りを出来さえすれば事足りると思い込んでしまうようになってしまうのではないか。
 デジタルデータに置き換えられる[情報]は、言ってみれば『情報』の断片でしかない。いくら[情報]をたくさん集めて積み重ねても『情報』にはならない。
 だから、フェイスブックあらためメタ社となった企業がやろうとしているメタバース内ではアバターが使われると聞くと、私達人間はどこまで切り刻まれてしまうのだろうかと空恐ろしくなる。

 けれど、対面でのコミニュケーションの場合でも気をつけなければならないことがある。誰かと会って無理に『情報』を得ようとすると、その瞬間に『情報』は[情報]になりがちだからだ。
 例えば、「その人は男です」と思った瞬間に、自分が何となく持っている男という概念にその人を当て嵌めてしまうことになる。その人のことを自分の尺度で切り分けて分類してしまい、その人自身のことが見えなくなってしまう。
 だから私は、「あの人は○○な人だよね」とか「あいつは○○な奴だから」と言う人のことを信用しない。

 実体から何かを切り取らなければ成立しない[情報]のやり取りに慣れてしまうと、そうやって人を切り取ってしまう癖が抜けず、対面で会った時も相手のことが見えているようで見えないということになりはしまいか。その人の本当を知りたいのに、無意識のうちに色眼鏡で見ることになってしまって、結局何も見えていないということになってしまったりはしないだろうか。

 喫茶店で隣の席に座ったカップルが、お互いの目を見つめ合っているのではなく、お互いに自分のスマホ画面を見ている光景に出くわすと、私はとても不安になる。あるいは、相手構わず一方的に話しているだけのカップルがいたとしても不安が募る。
 もっとも、テーブル越しに手を繋ぎながら見つめ合って微笑み合っているカップルが隣にいたとしたら、それはそれで昔の自分を思い出して気恥ずかしいが。

おわり

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