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『トップガン マーヴェリック』はトム・クルーズによるアメリカ映画のオマージュだった、と思った。

 エンドクレジットを見ていて、トム・クルーズという人の映画に対する絶大なる愛を感じた。それは愛という言葉でも足りないくらいで、言えば映画は彼そのもの、彼は映画そのものだ。
 今後トム・クルーズのような映画人は現れないだろうなあ。流れるスタッフロールを呆然ぼうぜnと見ながら、私は映画の内容よりもトム・クルーズという人の人生に思いふけっている自分に気付いた。彼とは比較的年齢が近い私の映画人生に常に彼がいたからかもしれない。


 冷静になってよくよく考えてみれば、有り得ないストーリーである。しかも全てのシーンが安っぽいベタな話で組み立てられている。
 けれども、観ているときはそんなことは微塵みじんも思わない。むしろ、気付く間もなく引きずり込まれている。
 笑い、悲しみ、怒り、哀愁あいしゅうと様々な感情に翻弄ほんろうされながら、いつの間にか理由わけも分からず涙がこぼれていたりする。
 しっとりした恋心、友情、親心に、子供の気持ち。心にまつわるあらゆるシーンが強引なくらいに散りばめられている。
 恐らく、分析的に見ればそのすべてが実に安っぽい。でも安っぽいというのは何処にでもあるということだ。私達の生活はそういった安っぽいことの連続だ。つまり、色々な状況や感情にあたふたしているだけで別に大したことは起こらない日常なのが私達の世界だ。
 現実世界では有り得ないストーリーをあたかも現実のように見せ、観客の時間と空間と心までをも奪う映画という世界の中に引きずり込む。そのための小道具なのかもしれない。振り返った時に一見安っぽいと思えるひとつひとつのシーンは。

 建付け上はトップガンの続編ということだけれど、内容も確かにトップガンだけれども、そんなタイトルやストーリーなんかはもうどうでもいい。
 映画が持つ魅了をたくさん詰め込んで、情熱をかけて愛情を持って作られた映画がこんなにも面白いということを思い知らせる娯楽映画にはタイトルも何もいらない。
 小手先の没入感では無く、本物の没入。
 難しく考えずに単純に見て楽しむ映画。心躍りドキドキし、歓喜する映画。そんな映画が沢山あったあの頃が懐かしい。それを思い出させてくれる。

 前作を知らなくても楽しめるし、前作をリアルタイムで見ていた人はさらに楽しめるはずだ。楽しめるというより感傷に浸れると言うべきか。前作からの時の流れに様々な思いがよみがえり湧き上がる。すべてのシーンが心を締め付ける。それは苦しくもあり苦々しくもあり、だけど・・・。
 人生を感じてしまう。
 登場人物の人生と併せて、自分自身の人生、時の流れを感じてしまう。
 いやぁ、いまこれを書いていても視界がかすんで来る。どのシーンを思い出してというのではない。ただただ、マーヴェリックを想うだけで何故か目頭が熱くなる。

 一つだけ残念なのは、この映画が作られたのが私にとってみれば、少しだけ遅かったことだ。出来れば子供がもう少しだけ小さい頃、つまり前作を私が見た年齢の頃に公開していてくれれば、一緒にこの映画に連れて行って語り合うことが出来たと思ったから。
 いや、違うか。
 ブラッドリーの年齢にうちの息子を重ね合わせるのなら、むしろ少し早すぎたのかもしれない。
 どちらにしても息子と予定が合わなかったのが残念でならない。

 theトム・クルーズを、そして、theアメリカ映画をいろいろな年代の人たちに見て欲しいと思った。

そう、『トップガン マーヴェリック』はトム・クルーズによるアメリカ映画のオマージュだった、と思った。

おわり

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