見出し画像

選挙になんか行きたくない

 選挙になんか行きたくない。
 そう思ったとしたら思う壺だ。

 建前だけは民主主義の法治国家なのが日本。
 それは建前だから選挙の投票で何かが変わることを期待しても無駄。何の影響力もない一市民が政治家に期待しても無駄。
 親身になって話を聞いてくれる政治家はもちろんいるが、政治的な実行力があるかは別。
 与党だ野党だ派閥だ何だと醜い政争には興味がないとしたら、それは賢明。
 仮に政権交代したとしても社会が良くなる訳ではないというのも事実。

 それでも、選挙に行ったほうがいい。私はそう思う。何故なら、国民の投票率が低ければ、そして政治への関心が低ければ、政治や行政はやりたい放題になってしまうから。
 大切なのは、政治や行政に関心を持って見てますよということを示すこと。きちんと監視してますよ、意見を持っていますよということを表すことだ。
 例えば仮に投票率が100%だったら、政治家や役人は今ほど自由ではいられない。無為な体制や政策や、余った予算の無駄遣いは出来なくなる。それだけで今より随分住みやすくなる。
 例えば政策に反対する気持ちを、広い幹線道路を埋め尽くす程の群衆がデモをすれば、政治はこれを無視できない。

 要するに私達は舐められているんですよ。
 どうせこいつらは投票にもいかないし、とっくに諦めているからボヤキこそすれ最終的には従うよ、と。
 週刊誌ネタには飛びつくけれど、それは説明責任とかなんとか言って何となく説明しているような言葉を並べておけばいいんだよ、どうせ理解できないから、と。
 質問に真っ向から答えるアホは政治家向きじゃないよな、はぐらかしが分かるような説明しか出来ないような奴もな、と。

 それは国民だけのことではなくて、政治記者に対しても言えること。記者なんて恫喝してやりゃいいし、それでもうるさけりゃ出禁だよ、と。
 記者は会社の看板で仕事してるだけで、こっちの言うことをそのまま横流しするか、ワイドショー受けする質問を振る位しか出来ないよ。まともにぶつかってくる記者なんて時代遅れでさ、みんなサラリーマンだよな、と。

 そう言われても思われても仕方がないのは、それだけ国民がだらしないから。興味がないし、どうせ変わらないし、と他人事でいても生活が脅かされることは無いと信じ切っていて、既に不当に脅かされていてもそれに気付いて対抗するような知能を持ち合わせていない。
 それでも皆それなりに生きてこれたから、そういう社会環境だったから良かった。それは高度成長期に日本が蓄えた遺産があったからだ。
 新たな技術に根ざした社会的なイノベーションや新たな社会の在り方や環境に根ざした体制づくりをしなくても、惰性で進むだけの余力が僅かにあったから。
 惰性が無くなりかけていて、もうすぐ無くなることを、国は分かっているはずだ。けれども効果的な対策を打とうとしないのは、そんな先を見越した方策を理解できる国民は限られていて、大半は座してブーイングすることが目に見えているから。
 興味がないと言っている人々に何か施す必要性なんて考えられないから、国民が働くのをやめない程度に飴と鞭を与えて飼育する。そうやって飼い慣らされた私達は、もはや飼われていることにも気付いていない。

 最後に残されているのは、たとえ関心がないにしても関心があるふりをすることだ。脳みそが機能不全に陥って政府の言いなりになるだけの木偶の坊でも、そっちのことは目に入っているぞと分かりやすく示すことだ。
 それが選挙での投票だ。

おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?