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運命

私は運命論者。
偶然にしては出来過ぎているような出会いや出来事に遭遇する度に運命を感じる。
幼少の頃に訪ねたことがあった天文台での仕事について書かれた本を偶然中学校の図書室で手にしたり、高校の時に自分が趣味で興味を持ったことに詳しい先生がたまたま身近にいたり、自分の学力からするとまぐれとしか思えない大学に入れてしまったり、好きになった人がたまたま同じような趣味を持っていたり。
食べたいなと思っていた料理の店の前を偶然通ったり、知りたいと思っていた情報を持っている人が偶然表れたり、仕事で何回か会って親しくなった人がたまたま同じ大学だったり(メジャーとは言えない大学です)。

そんなことはただの偶然だと済ますことも出来るけれど、私はその度に、これはきっと運命なのだろうと思ってきた。このタイミングで遭遇することが予め定められていたのだろうと。

運命は、良いことばかりではない。
思い返すと、むしろ悪い事の方が多い。今の自分の苦悩は、あの時のあの出会いが無ければどう変わっていたのか、あそこでもうひとつの道を選んでいたらこんな目に遭わなかったのでは、中学の時にあの先生の勧めが無ければ高校であんなに辛いことはなかったろう。
不幸の運命を辿って戻ると、究極には親ガチャ的な話になってしまう。

この親で無ければもっと・・・。

「両親には感謝しかありません」「尊敬するのは親です」「最後に見捨てないで信じてくれたのは親でした」「あなたはあなたのままでいい、と親が言ってくれたことで吹っ切れました」
そんな話を聞く度に、笑顔でやり過ごす私の心の中では、悔しさとはまた違う悲しみにも似た感情が溢れる。妬みではなく、それこそ運命への呪いのようなものだ。自分の場合も、別の親なら間違いなく別の人生があったと確信が持てる。

でも、それでも、そんな悪い面もひっくるめて全て運命で決まっていると思う。その運命は私の人生そのもので、恨んだところ呪ったところで、どうにもならない、自分の力では変えようが無いことだ。

なんで・・・。
なんでこんなことになるんだ。
なんで自分はこんなに苦しまなければならいんだ。
自分の何が悪かったというのか。
どんな悪いことをしたというのか。
どの時点に間違いがあったのか。
生まれたことがそもそもの間違いだったのか。
生きている意味が無いんじゃないか。
自分がいてもいなくても宇宙は変わらずにり続ける。
だったら、どうして・・・。

なんで自分だけがこんな目に・・・、と思ったところで、それが私の運命さだめだからだと思えば、抗っても変えられないものなのだから受け入れるしかない。辛く、張り裂けそうになっても、涙に濡れて眠れない夜も、運命でしかないとしたら、この先に起こる良いことも悪いことも仕方がないことだ。
もちろん、変えようとする。変わろうとする。自分で何とか出来ることは何とかしようとする。それで上手くいかないことの方が多い。嬉しいことよりも悲しいことの方が多い。楽しいことより辛いことの方が多い。でもそんな風に私が感じていることを知っている人はいない。誰にも打ち明けられないこともある。普通をpretendすることに慣れすぎて、どこにも本当の自分がいない。
愛せない、愛されない。
どうせ嫌われるだけ、どうせ上手くはいかない。
そう思いながらも自信があるように振る舞う。
そうして本当の心は迷子になる。
でも、それもひっくるめて全て運命なのだ。

近年稀に見る大災害に見舞われて亡くなった人の記事、交通事故で亡くなった人のニュース、若くして癌を患い無念のまま亡くなった人の話題、家族を惨殺した犯人逮捕の報道。
これらの当事者本人はもちろん、その周囲には多くの人の不幸が隠れている。それら全ての人の人生において衝撃的で受け入れがたい出来事だろうと思うが、そんなニュースを聞く度に、その方の運命や定められていた命の長さを感じ、ただただ冥福を祈る。本当に残念だったろうけれど、きっとその人がそこで亡くなることは元々定められていたんだと思うことで少しは救われるような気がして。

交通事故の加害者だって、癌で子供をなくした両親だって、みんな心に傷を負うことは違いない。それを背負って行き続けなければならないことも。
殺人犯はもしかしたら、犯行前に負った心の傷が深すぎたのかもしれない。普通の人は例え衝動的であっても、そう簡単には人を殺せない。
これらの嘆きの全てが運命だとすれば、それはどうしようもない。
交通事故と病気を並べて語ることには嫌悪感すら抱く人がいるかもしれないが、加害の相手がいてもいなくても、人が亡くなったことは同じ。その後に恨みの矛先をどこに向けるかの違いだ。決して恨んではいけないと言いたいのではない。恨むことも運命のうちだから。

明日大災害に見舞われるのは私かもしれない。
ともすれば今日事故に遭うのかもしれない。
今年の年末ジャンボは1等が当たるのかもしれない。
来年早々には思わぬ遺産が転がり込んでくるかもしれない。
でも1年後の今頃に家族を失うのかもしれない。
5年後には既に死んでいるのかもしれない。

この先の私にどんな運命が待っているのか分からない。
どうやったって知りようがない。

だったらやっぱり、今目の前にある出来事と自分の中にある感情を運命と受け入れて、過去を恨むのではなく、未来を嘆くのではなく、今を生きるしかない。

どこまで行っても、これが私の運命。

そう考えたら、沈んでいた心が少しだけ軽くなった気がした。

おわり



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