見出し画像

遠くの国のことだけど

 先日、昼食を摂るために入った喫茶店で、遠くの席からこんな話が聴こえてきた。
「俺はさァ、行くと思うんだよ」
 声の主が仲間内と思われる同席者に「どう思う?」と問うた後、皆の煮えきらない返事に対してハッキリと自分の意見を表明した瞬間だった。話題は中国による台湾侵攻の事だ。

 自信を持って「行くと思う」と言った彼は、声から想像するに60〜70代と思えた。そのテーブルの雰囲気からすると一般庶民の歓談といった感じだから、まさかその筋の研究者ということは無いだろう。
 私は食事を口にしながら滔々とうとうと彼が述べる持論に聞き耳を立てた。しかし残念ながら彼が続けた言葉は店内の喧騒けんそうの向こうで途切れ途切れで、良くは聞こえなかった。合間に時々聞こえてくるのはテレビや新聞で言われているようなことだ。やはり専門家では無さそうだ。

 私はプレート上の厚い豚肉をナイフで切りながら、彼は何を根拠に中国の侵攻を語るのだろうかと考えた。何か特殊な情報を得ているのではないとすると、それはきっと意見表明というより、仲間内の雑談の主導権を握るための牽制のひとつに過ぎなかったのかも知れない。
 きっと彼の情報源はテレビのワイドショーや週刊誌の記事で、そこに登場した専門家の話だろう。
 マスメディアで語られる話題はこのようにして巷に流布るふされるという典型的な場面に遭遇しただけなのだろう。

 この種の雑談は、例えばプロ野球でどのチームが優勝するとか、競馬でどの馬が来るとかいったのと同じ感覚で語られている他愛もないもので、どこにそんな根拠があるんだと目くじらを立てるようなものではないのだろう。
 しかし、そこでの話題は言ってみれば戦争についての事だ。しかも、それが起きたとき日本は他人事ではいられない地理的距離にある。政治的、経済的にも傍観では済まされないだろう。
 だから「そんなことが起きたら大変だね~」と言って流す話では無いはずだ。

 ところが私を含めて、「大変だ、大変だ」と話題にはしても、どこか他人事としか受け止められずにいる人が大半多ではないか。つまり、有事を想定して何らかの行動に移しているという人は多くないだろう。
 ましてウクライナのこととなればもっと遠い国の話で、全くもって現実味が無い。心理的距離は映画の中の話と大差なく、話題として成り行きに興味はあるが、かと言ってどうなろうと私の生活には直接関係ないという感覚だと思う。

 しかし、よく考えてみるまでもなく、場所はどこであれとんでもない事態に陥っていることに違いない。
 話は戦争が起こるか起こらないかの瀬戸際の話で、しかもそれらの国には、当たり前だが、生活している人々がいる。
 その国や人々の将来が掛かった話だ。
 それなのに、少なくとも私の頭の中ではひとつのニュースとしてしか理解できない。現地の人々の不安や苦しみに共感するための記憶が無い。

 私達は長らく戦争から遠ざかった末に平和ボケしてしまったのだろう。平和なことは良いことで戦争が悪い事というのは当たり前だが、戦争のことを想像すらできないということは彼の地の事態を他人事としてしか捉えられないことと同義だ。 
 危機感は危険との距離の二乗に反比例する、と勝手に考えている。
 抱く危機感と危険との距離の関係を想像力で超越出来るのが人間の優位性だと思うが、その想像力が働かない。つまり、危険な場所から離れると危機感はどんどん薄れるけれど、それを想像力で補って対策が取れるから人間は生き延びてきたとも言える。その想像力の源泉が無くなってしまった。
 想像力は経験からの類推だから、全く未経験の領域では想像力は働かない。
 実際の戦争での痛みは戦争映画で垣間見られる痛みとは比べようもないくらい別の体験で、想像力で補えるレベルではないだろう、ということくらいは想像がつく。経験を伴わない想像力の限界だ。

 遠くのことだと思っていたことが急に自分に降り掛かってくるという経験を私達はこの2年で体験している。
 彼の地の危機を我が身のことのように感じられる想像力を持つことも必要だが、実体験を伴うことが無いよう願いたいのも事実。
 やはり、体験していないことや経験していないことも現実的に受け止められるくらいの強い想像力を鍛えていくしかないのだろうか。

おわり
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?