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自分だけが知っている美味しい店

「自分だけが知っている美味しい店」
 雑誌のテーマとして掲げられていそうなコピーだが、この言葉が多くの人が目にする情報メディアで語られるとき、当たり前だが、そこには自己矛盾が生じる。

 世に知れ渡った瞬間から、自分だけが知っている美味しい店は皆が知っている美味しい店となり、更には自分だけが知っていだからこそ(他よりも)美味しいという価値が担保されていたのに、皆が知ってしまった以上、価値は低下せざるを得ない。

 そんなことは当たり前だと思うかも知れないが、私達が行う行動はその逆を行くことが多い。つい他人と同じ行動を好みがちだ。
 とかく人が持っている物を欲しくなるし、自分がした経験を人に共有したくなる。そのような行動の結果、人の好奇心は平準化される方向に動く。

 人が持っている物を欲しくなった時、手元に十分なお金があれば買うという手段を取ることが出来る。
 お金のお陰で奪わずに購入するというようになったと考えると、お金は人から無駄な争い事を減らす効果があったと言えるかも知れない。
 しかしお金がなかったりお金では手に入らないものの場合、人から奪うことになる。野生動物なら当たり前のことだが、人の場合は奪うことは罪とされる。

 欲求の多くは日常の様々な行動の中で能動的に解消される事が多いものの、一つだけ自らの意志や努力ではどうしょうもないことがある。
 それは親から受ける愛情だ。
 愛情とは、愛おしいと思う事で、見返りを期待せずに与えたいと、自然に思えてくる感情だ。

 しかし人間の心は複雑なもので、私はこんなに愛情を持って接していると自己陶酔してしまう場合がある。その場合、感情の矢印は子供ではなくて自分に向かっているから、それは愛情とは似て非なるものだ。

 あるいは、子供に対して慈しみの感情を抱かない、もしくは抱けない場合がある。それは愛情を受けた経験が無い場合だ。受けたことが無いものを提供することは出来ない。理性の部分で愛する真似をすることは出来ても、感情を伴って愛することは出来ない。

 愛されたことの無い親の子供は愛されないという、ある意味絶望的な負の連鎖を断ち切ることは実際難しいが、夫婦のどちらかに愛された経験があるか、愛情を持って育ててくれる身内がいれば救われることもある。

 虐待の連鎖が問題視される中、なかなかそれを止められないのは、虐待が愛情を欲する気持ちと背中合わせであるからだ。
 虐待する側となる親の側の愛情欲求を満たさない限り、虐待をやめさせるのは難しい。現実的には、虐待加害者は社会的に蔑まれ疎まれるとこで、ますます本人の心は安寧から遠ざかることになる。

 愛情欲求の代償として承認欲求によって満たされるかと言えばそんなことはない。いくら他人に承認されたところで、他人は他人だからだ。生活を共にしていない人に承認されても愛情は満たされない。

 あんな毒親からの愛情はむしろ迷惑と思うかも知れない。それはその通りで、毒親が毒親でいる限り愛情とは無縁にならざるを得ない。

 恐らく多くの人は愛情の欠乏とは無縁だろうと思うが、大人になっても愛情を欲し続けている人がいて、その孤独に押し潰されそうになっているのだということを知っておいた方が良い。

 自分だけが知り得る本当に美味しい店を見つけ出そうとするのは心底難しいものだ。

おわり


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