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自転車コワイ

 それまで乗っていたオンボロ自転車がとうとう乗れなくなって処分してから何年も経った。多少の故障やタイヤのパンク程度は自分で治す派だったから、結構長く乗ったと思う。しかも元々貰い物だったはずだ。

 自転車が無くなってからは当然自転車に乗らなくなって、家人に自転車で行こうと言われても自転車無いから無理と虚しく答え続けてきた。
 その度ごとに、買えば良いじゃんと勧められていたし、そりゃ御尤もなんだが、じゃ買いに行こうかとはなかなかならなかった。

 何が私を躊躇させて来たのか。自転車を買うという何の難しさも無い行為を妨げていたのは何だったのか。

 私が躊躇する間にも息子たちは、普通の自転車はおろか、ロードバイクなる高価な自転車まで購入する始末だ。
 正直、俺だってロードバイクで疾走してみたいわいと思わなかった訳では無い。かと言って、バイト代をはたいて買ったそんな高価な自転車を、ちょっと借りるわと気安く言える性格でもない為、ああ俺もいつか欲しいなあと見上げていた。


 覚えるまではあんなに不可能に思えたのに、一度出来るとそれまで出来なかった理由が分からないくらいに乗れるようになるのが自転車の不思議。それを操る人間と脳の不思議。
 他のことは暫くやらなかったら忘れちゃったなということが多いのに、自転車だけはそんなことはない。一度でも乗れたら、もうずっと乗れるのだ。

 いや、まて。これは本当だろうか。
 自転車の乗り方は一度覚えたら忘れないというのは。
 ある時息子が自転車で箱根に行ったと聞いたとき、私は急に不安になった。俺にはそんなことは出来ないし、ましてやずっと乗ってなかったからには、自転車に乗れなくなってしまったのではないか。
 勢い込んで自転車屋に駆け込み、オヤジ、生きのいい自転車一丁くんねぇか、と来たところで試し乗りしようとして乗れなかったら赤っ恥をかくじゃないか。
 仮に乗れたとしても、三十分も乗ったところで脚がガクガクして進めなくなったりしたら格好がつかない。
 いつしか私は、自転車屋に行くと考えることすら怖くなってしまったのだった。

 そうだ。きっと私を自転車から遠ざけていたのは、しばらく乗らない間に乗れなくなってしまっているのではないかという不安と、そんな事実は受け入れたくはないという現実逃避だったのだ。まだ乗れなくなったと確定した訳では無いが。
 でももし乗れなくなってしまっていたら、またあの悪夢の練習をこなさなければならないということだ。いつまで経っても乗れるようになる気がしない練習をひたすら続けるあの悪夢をだ。誰がそんなことを望んでするか。
 
 というわけで、私の手元にはまだ自転車は無い。だから、ちょっとそこまでという用事があるときに、歩いていくか車で行くか、それとも諦めるかという、えらく不便な思いを強いられている。自転車があればなぁと、思う。
 きっと怖さを乗り越えた先にはルンルンとペダルを漕ぐ楽しい世界が開けているはずだ。

 そう思い聞かせながら、壁に掛かるふたりの息子の自転車を今日も眺めている。

おわり


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