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今が正解

 あの時ああしておけば良かった。あちらの道を選んでおけば違った今があるはずだった。やり直せるならもう一度あの時点から始めたい。あの時に躊躇せずに告白していればあの人と一緒に楽しい人生を歩めていたかも知れない。そうした思いは誰にも少なからずあるだろう。
 後悔というやつだ。
 後悔にはもっと深刻なものもあるだろう。人を殺めてしまった場合は、それが故意であろうとなかろうと、何でこうなってしまったのだと過去の起点を探すことに執着せざるを得ないだろう。そして人からは反省することを強いられる。反省していないと見られれば量刑が重くなる。それだけ反省は重要と世間では思われている。

 後悔と反省。
 純文学のタイトルのようだ。
 反省することで人はより良い方向に進めると誰もが信じているのだろう。
 私が最初に反省を促されたのは確か小学校の教諭からだった。それまでも親から叱られることは幾度となくあったが、具体的にこれをするなと言われたとしても、反省しなさいとは言われなかった。だから正直に告白すると、教諭から反省しなさいと言われた時、私には何のことか分からなかった。反省とは具体的に何をしろと言われているのか理解出来なかった。
 反省文用の原稿用紙に手が伸びない私に、見かねた教諭はこう言った。あなたがしたことと、どうしてそんなことをしたのかを書きなさいと。私はありのままに起きたことを書いてみたのだが、それを読んだ教諭は反省が足りない、とだけ言った。

 今思えば、きっとあの教諭自身も反省とはどういうことかを知らなかったのだろう。あるいは教師とは悪いことをした生徒に反省を促す存在と信じていたのかも知れない。
 ちなみに私は未だに反省が分からない。そんな大人がいるから日本が駄目になるのだと言われそうだ。

 過去に起きたことの理由を探って改めることで未来がより良くなるという思想は幻想だ。放置すればあらゆる依存症が再発してしまう様に、悔い改めただけで改善されるほど人は簡単ではない。むしろ理由は遺伝子レベルに埋め込まれていて個人の力ではどうしょうもない。どんなに悔い改めても起こるべくして起きてしまう。
 遺伝子かそれとも環境かという話がよくされるが、当然ながら答えはそのどちらか一方では無い。遺伝子要因と環境要因の掛け合わせが人の行動を決める。ひとりの人間においてもパラメータは無数にあるから人の未来は単純な計算では導けないが、人生がパラメータの掛け合わせと考えれば、無限の計算能力と無限の時間さえあれば人の一生は計算可能だ。
 仮に無限の計算能力・時間を持つ存在を神様と呼ぶことにすれば、神様はあなたがいつ恋に落ちて誰と結婚し、何人の子供をもうけて何歳で死ぬか、全てお見通しということになる。あなたが明日の朝ベッドから起き上がる時にどちらの足が先に床に着くかを神様は知っている。

 ものすごく可能性が低い出来事が起こることを偶然と呼ぶとするなら、あなたの人生は偶然の積み重ねではある。無限のパラメータの掛け合わせとはそういうことになる。
 が、裏を返せば可能性が限りなくゼロに近いことと可能性がゼロとは違う。普通は「限りなくゼロに近い状態」とゼロは同じとされるのだが、無限を前提とした世界では、それらは別物になる。可能性がある限りゼロではない。
 そして私たちの住む宇宙は無限と言われている。
 だから、地球が出来たのも偶然でありながら必然。そこに生物が生まれたのも、人間が生まれたのも。あなが生まれたのも。

 あなたが生まれてからこれまで歩んで来た道は偶然の積み重ねであっただろうけれど、そうなるべくして今に繋がっている。他の道に辿り着いた可能性は無い。つまり、今この瞬間があなたにとっての正解。不正解の無い正解ということだ。
 そして、正解はこの先も躊躇することなく続いていく。
 重要なのは今はいつでもプロセスの途中ということだ。今が終着点ではない。今あるあなたは正解に向かって歩んでいるのではなく、既に、そして常に正解の場所にいる。

おわり
 
 
 

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