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金融 〜 分かち合いから独り占めへ

 今では余り良いイメージにとらえられなくなった言葉、金融。
 欧米で言うファイナンスの語源は終わらせるという意味の単語だと言う。金を払って終止符を打つというと聞こえは良くないが、契約社会であれば合理的な解決方法の一つだろう。

 一方で「金融」はお金を融通するという意味。お金のある人から必要な人へ融通するということだけ見れば、作り過ぎた夕飯をご近所にお裾分けしたり、何事もお互い様という日本的な感性が見て取れる。そこにはドライに割り切るのとは違う、人々のウェットな関係性が浮かび上がってくる。

 融通という言葉は、滞り無く通じる事を意味するから、融通する時は何の邪念もなくごく自然に行われる事がイメージされる。見返りを求める気持ちなどそこには存在し無さそうだ。
 仏教で言う融通とは、別々に見えるものが溶け合っている事。宇宙万物が互いに影響し合って調和している様子を意味する。万事がバラバラに孤立したものではなくひとつになっている。これは個人(インディビジュアル、それ以上には分けられないもの)を単位として考える西洋とは対象的だ。

 同じ仏教用語で融通無碍となれば何事にもとらわれることない自由なさまが想像される。それは勝手気ままな自由ではなく、人と人、人と自然など、全てが調和している様子を意味する。

 古くから融通無碍なる理想が語られたのは、人間がそうではないからそれを正す意味だったか、あるいは放っておくと人は孤立し独善的になる方向に進んでしまうことの戒めだったのだろう。
 どちらにしても、そうした仏教感が自然と調和して暮らす日本風土によって形づくられたと言えるかも知れない。

 高層階レストランの窓の外、眼下に広がる光の粒はきらびやかで心躍るものかも知れないが、暗闇に舞う蛍の儚く淡い光のような情緒は無い。
 せせらぎの音を背景に森に響く小鳥のさえずりは、どんなに高級なスピーカーで再生されたとしても平面的で奥行きが無く空疎だ。
 空調が完備されて守られた空間は確かに快適だが、辿り着いた山の頂きで感じる清涼感とはまるで別物だ。

 今の金融を否定するつもりはない。
 未だ不完全な仕組みで人にとって良いことばかりではない事も事実だろう。
 金融は人々が通じ益をもたらす為に利用するものであること、人を騙したりおとしめる可能性があることを忘れないこと。
 そして金融は、それが手段から離れて目的化しがちなものであることを常に意識することが出来れば、悪いものではない。

 まぁ現代人の殆どは金に目が眩んでいて、金の亡者と言われる状態だから無理か。

おわり

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