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分析すると何が分かり、何が分からないのか

 ほどいて確かめるという意味の語源を持つ英語のanalysisは、分析と訳される。
 分は文字通り分けるという意味だし析もバラバラにするという意味。物事を細かく分けて本質を探るという意味の中国の言葉だというから、洋の東西を問わず、細かくバラせば本質が分かると思われていたということだ。
 分かるという言葉も分けるに通じ、理解することは分けることと同じ、ということだ。

 言葉の由来からして、このような細かくして見ていく手法は古代の頃から行われて来ていたことが分かる。分析はいまや科学の基本中の基本であり、産業はもちろん社会全般でも常道になっている。
 分けることで理解するというやり方が世界共通ということは、分析グセはきっと脳の仕組みと関連しているのではないだろうか。

 分けて考えるというのは、ひとつのものに対してその一部に名前を付けることでもある。スイカを例にすると、丸っとスイカと呼んではいるが、割った時に現れる赤い部分や薄緑色の部分、そして濃い緑色の部分や黒い粒々にはそれぞれ名前が付けられている。赤い部分は内果皮(果肉)、薄緑が中果皮、濃い緑色が外果皮、黒い粒々は種子と呼ばれる。そしてこれらのうちで赤い部分の果肉だけが食べる部位だと知っている(他の部位も食べれないものではない)。つまり、分けて考えることで赤い部分は食べられるという知識を得ていることになる。人間にとって、食べ物としてのスイカの本質は赤い部分ということだ。

 しかし一方で、植物としての西瓜を考えれば、黒い粒々の方が大切だ。子孫繁栄には種子が無ければ始まらない。では赤い部分は無意味かというとそんなことはなく、動物に食べられることによって種子を広く散布するという効果がある。自らが移動出来ない植物ならではの生存戦略だ。だから、果物が美味しいのは人間のためではなくて植物側の都合でもあるということだ。
 と、こうして西瓜の実の分析は進むのだ。
 分析の技術は途方もなく進み、今では素粒子と言って顕微鏡でも見ることが出来ない小さな小さな粒子(?)があることが分かっている。既にもはや分けきれないほどの小ささなのだが、それでももっと小さなもととなるものがあるのではないかと思ってしまうのは人間の性なのであろう。

 分けたものに名前を付けること、すなわち言語化することで前頭葉が扱いやすいものになる。名前を付ける時にはそれまでにあったものの類推で命名されることが多く、似たもの同士を言葉によって結びつける働きがあるとも言える。
 当たり前の話だが、似ているもの同士は、似ている部分と似ていない部分がある。このうちの、似ていない部分こそが、そのものを特徴づけることであって、それが本質とも言えるだろう。
 似ているけれど似ていない部分。それを見つけられると、人は何か分かったような気になるのだ。

 物について分析的に解析することは良いとしても、それを人や人の心に援用してしまうとおかしなことになる。脳をバラバラに解剖していったら「心」が見つかるはずだと昔の科学者は真面目に思っていたというのを聞いたことがある。今聞けば皆笑うだろうが、分析するという行為にはこのような誤謬性を内包していることを忘れてはならないということだ。
 分けても分かれないものや、分けてしまっては見失ってしまうものがあるということや、分けて考えを進めることで論理的には正しくても総体的には間違ってしまうことがあるということを忘れないようにしたい。

おわり
 


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