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人間は葦になる

 検索は便利だ。検索抜きでは生活が成り立たない。
 何かを調べるのに検索をするという事を思いついた人がいたということだ。少なくとも私は思いつかなかった。
 検索が当たり前の世界で育つと調べる=検索という等式に疑いを持つことは無いだろう。しかし、検索以前の世界には検索という日常語は無かった。調べるという行為から検索が意識されることは無かった。

 だから、何かを調べる為には、まずその調べ方を調べることから始めなければならず、それすら検索することは出来なかった。
 例えば山で野鳥を見かけた時、身近に詳しい人がいれば一発かも知れないが、それでもその人が知らない鳥ならお手上げだ。
 仮にその野鳥の写真が撮れたとしても調べるのは難儀だ。山を降りて写真を現像に出し、街にある大型書店を訪れて、マニアックな野鳥図鑑を手にとって記載された解説文と挿絵を頼りにページをめくらなければならない。図鑑は何冊もあったりして、立ち読みするには申し訳ないが買うのには高過ぎて、肩身を狭くして眺めても結局これという答えが見つからないこともある。
 山で鳥を見てからここまでが早くて数日。野鳥ファンでもなければ調べるのは諦めるだろう。

 そうしたことも今なら簡単だ。検索すれば直ぐに、秒で答えが得られる。鳴き声まで確かめられるし、様々な動画も見られる。
 何かを知りたくなった時に、検索出来なかった昔なら諦めていたことがその場ですぐさま分かる。
 こうなると人間の知識欲が刺激されて人は博学になるかと思いきや、そうはなっていない。
 それは、検索によって情報へのアクセスが容易になったことで、知識の価値が相対的に低下したからだろう。記憶してなくても誰でも直ぐに調べられる情報は自慢できる様な知識にはならない。

 実際、検索によって私たちは大きくショートカットすることが出来た。
 と同時に、検索によって世界は画一化・固定化された。
 検索は答えを得るためのヒントを与えるだけなのだが、検索結果が答えそのものであるかのように私たちはすっかり誤解してしまっている。私たちは答えが見つかったと思えるまで検索を続けるから、見つかった答えこそが唯一の答えだと思い込んでしまう。もちろん殆どの場合、検索結果は正しい答えを示している。しかし、物事の正しさは本質的に絶対的なものではないから、ゆらぎが存在し得る事を忘れてはならない。

 私たちはともすれば、検索結果にはこう書かれている、というのを起点にして話を始めがちだ。話に詰まったり話の中で分からない事に遭遇すると再び検索する。
 この先もっとAIが普及すれば、今度は検索ではなくてAIに聞くようになるだろう。情報だけではなく考え方やその道筋までをもコンピュータに従うことになる。つまり人間は知識を溜め込むことも考える必要もなくなる。
 AIが普及しても人間はAIに出来ないことを行う使命があるというのは嘘ではないだろう。しかしそんなこととは無縁な私たちの多くは、情報端末無しには何も出来ないどころか、何も考えられない人間になってしまう。
 人間は考える葦であると言った偉人は、きっと考える必要がなくなる様な技術を人間が創り出すとまでは予想していなかったことだろう。
 この先、人間は葦になる、ということか。

おわり


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