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過去の闘病生活を振り返る。〜①精神科に掛かるまで、初診〜

前置き

思春期から精神疾患と闘病していると、どうしても敏感な年頃だし、わたしの場合だけれど「わたしはこんなに辛いの」って言うことをわかって欲しくて、認めてもらいたくて、試し行動のようなことをしてしまったり、病気を口実に色んなことから逃げて、実質病気に逃げて甘えているような、そんな時期がありました。
本来の自分は、きっとその頃の自分とは正反対なのに。

だけど。その頃も病気に苦しんでいたのは変わらないし、闘っていたことにも変わらない。

18歳まで通っていた前の病院では、衝動性が強かったことや周りに認めて貰いたい願望が強かったことからか、
「情緒不安定性パーソナリティ障害」
と診断されたこともあります。
(今の主治医さんは「思春期特有のものだったのに…病名をいちいちつけるなんて」とおっしゃっているけれど。)

精神科に掛かるまでの苦しみ、病気にどこかで甘えていた時期、入退院を繰り返していたこと(結構直近まで繰り返していました)、そして、苦しいけど何とか前を向いて闘病できるようになって、本来の自分を取り戻しつつある今のことを、振り返って綴ってみようと思います。
解離の影響なのか、薬が強すぎたのか、記憶がほとんどない時期もあるので、そこは端折らせて頂きます。





精神科に受診するまで、そして初診した頃のこと。

中学2年生の頃、精神科に初めて受診した。
小学生の頃、とある事件の被害にあってカウンセリングは受けたことがあったけれど、正式に精神科に受診したのは初めてだった。

中学1年生の頃は、部活とクラス、両方で虐められ、父が居るから家でも気持ちが休まらない、という感じで居場所がどこにもなかった。今思えばあれは完全な虐め、それも激しめな虐めだったけど、当時のわたしはその事実を受け入れる余裕もなく、「虐められてる」という自覚はなく。
ただ、自分が悪いからこうなってるんだ、と自分を責めていた。
「虐められている」ということを認めたくなかったんだと思う。その事実から無意識に逃げて、心を守っていたんじゃないかな、と今は思っている。

それでもとにかく毎日辛くて、その頃にはもう自傷を覚えていた。けれど、それも誰にも言えずに、人に頼れず全て1人で抱えていたように思っていた。孤独だった。心配してくれていた人はいたのに。
傷つける場所もバレないように太ももだった。

家ではいつもの笑い上戸の明るい自分を演じていた。辛さがバレないように、苦しみを隠すのに必死だった。
でも、寝る前、部屋に1人になった時は、大体毎晩過呼吸も起こしていたから、「わたし、頭おかしくなった?」と思っていた。
過呼吸は小学5年生の頃から時々起こしていたけど、あの時みたいな頻度で起こしていたのは初めてだったから。
助けを求めたかったけど、誰にも心配をかけたくなくて、勇気が出なくてどうしてもできなくて。

中学1年生の本当に終わりの頃には毎朝嘔吐するようになっていて、終業式の数日前のある日、学校に行く前に脱水だったのか何だったのか分からないけど、倒れた。
やっぱり母には精神的に参っているのはバレていたみたいで、それがキッカケになって深く追求もせずに
「知菜実、学校休もう。無理に行くことない。」
と言ってくれて、わたしは泣き崩れた。
その時に、安心したのと同時に、心がとうとうポキッと折れてしまった気がする。もう頑張れない、と。


後から知ったことなんですけど、母はクラスの担任兼部活の顧問だった先生に何かあるんじゃないかと、何回も電話をかけてくれていたみたいです。
でも、その先生は「何も無い」の一点張りだったらしい。
それを知った時は涙が止まらなかった。

叔母が小学校で特別支援級の先生をしていて知識があったので、中学生でも診てもらえる病院を教えてくれて、中学2年生のはじめの頃に受診して、何回か通って診断された病名は

『適応障害、不安障害』

だった。
わたしはどこかでほっとしていた記憶がある。
病名がついて、今までの自分の苦しみは病気のせいだったんだ、と思えたから。
この頃から、既に病気に責任転換をしていたんだと思う。

(続きの記事を書きました。宜しかったらご拝読ください。)

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