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表現自体か規制する社会か。有害なのは果たしてどっち?『有害都市』

不適切って、誰にとって不適切なのか?

最近よくテレビとかで「今はなんでもかんでも自主規制で、昔ほど思い切った番組が作れない」「つまらなくなった」なんて話が聞こえてきますよね。良いか悪いかは別として、面白さだけでいうと確かに昔の番組の方がバカバカしくて面白かったなあなんて思うことは正直結構ありません?

確かに、子供は多くを知らないからこそ無垢でいられる。だから大人たちがちゃんと正しいことを正しいと伝えたり、間違ったことをしたら叱ったりするのと同じように、情報をちゃんと取捨選択して不適切な表現から守ってあげることは大事だとは思います。

テレビ番組なんかは、テレビのスイッチを入れれば小さい子供がどんな番組でも見られるんで、表現方法には細心の注意が必要だというのもよく分かる。

でも、何が適切で何が不適切なのか、という基準て正直ものすごく主観的で曖昧なんですよね。

世の中には実際に多くの犯罪や、犯罪まではいかなくても暗い出来事、負の感情なんてものが溢れているし、それはニュースとして番組や新聞なんかで届けられたり、人々の口からいくらでも聞こえてくる。

じゃあそういうことを子供の教育上良くないからって理由で全部ブロックするのか?と言えば、むしろニュースや新聞は推奨されてたりするわけで。

この「ものすごく主観的で曖昧」であることがいかに危険で怖いことか、それを考えさせてくれるのが今日ご紹介するこちら。

「表現の自由」ってなんだ?

漫画や小説、映画やドラマ、舞台、音楽といった創作物は、生物として必要な「食べる」「寝る」「子孫を残す」といった種の本能に関わる部分にはおおよそ不要なもの。

だからこそ、他の生物と違って最も人間らしい、文化的な産物。

文化的である以上、生きるために必要不可欠なものではないんだから、あらゆる思想・妄想・夢や理想を自由に表現できるものであるべきだ。

でも、だからと言って未成年者を対象にしたポルノや、殺人・暴力など犯罪を礼賛したり助長するような表現はむしろ文化を破壊するものだ。なんて言われるけど、そういった直接的な表現は描かれていなくても、聖書は世界を天国に行ける人と地獄に堕ちる人に分けてしまってとんでもない数の人が死んでいるし、1冊の社会思想本が国そのものを滅ぼすなんてことがあるのなら、じゃあそれらの本は文化やそれが根ざす社会を破壊する、不健全で有害なものじゃないのか?

この漫画の中でも、源氏物語のストーリーをむしろ忠実になぞりながら現代風に描かれた漫画が「不健全だ」と有害図書指定(一般業態の書店における全年齢対象の店舗やフロアでの陳列・販売できなくなる)を受けた時に、「じゃあ歴史的文学名著の源氏物語も有害図書指定するのか」「紫式部は有害作家なのか」という議論が出てきます。

歴史に残る名作というのは、だいたいが人の心を強く揺り動かすほどの作家たちの熱いパッションの産物です。それなら、そこから不健全だと言われるような要素を取り除いてしまっていたとしたら、それこそ駄作に成り果てていただろうなと思いません?

よく「表現の自由はどこまで許されるのか」なんて議論が出てきますけど、はっきり言ってどこまでも、どんなことだって表現すること自体は許されるべきだし、と言うか許す許さないなんて誰に決められるものでもないハズなんですよ。

なのに、この「ものすごく主観的で曖昧な」基準を以って、これは許す、これは不適切だなんてことを決めた挙げ句、「子供のためだから」だとか「犯罪を助長するから」なんてもっともらしい正義を体現したかのような人たちがあまりにも多い。それがさらに「有識者」なんてよくわからない肩書だのを名乗るよくわからない人たちによって議論された挙げ句、「この本は有害図書です」「この作者は思想的に害悪です」なんて決められるなんて、たまったもんじゃない。

何度も言いますが、僕は特に子供たちのために大人が教育することは必要だと思っているけれど、それが表現すること自体の規制になったり害だの悪だのだったりを断じるのは全く筋が違うと言いたいんです。

世の中には悪意が溢れ、犯罪が横行し、騙し合い殺し合いがなかった瞬間なんてないんだから、ただ隠すだけじゃあ本当に健全な青少年は育成なんてできない。

むしろ、きちんと知識を得て、そこから「自分が正しいと思うこと」、「社会で他者と関わって生きていく上で選ぶべきこと」を自ら選べるようになる大人に育てていかないと、犯罪者の巣窟に丸裸で全身にお金だの宝石だのを山程ぶら下げて放り出すような仕打ちを子供たちにするのと同じですよ。

性的な表現だってそう。

人を好きになることに理屈なんてないし、好きになったら触れたいと思うことは悪いことではないし、その先にSEXがあるのもなんら間違った道筋じゃない。性欲はむしろ三大欲求にも数えられるんだから、そこを変に隠そうとしたりいろんな愛や性の形があることを子供たちにも教えていかなきゃいけない。

大事なのはイチゼロで有害だと断じることじゃなくて、どういう情報をいつどういった段階を踏んでどうやって伝えるか。議論すべきところはそこでしかないと僕は思います。(アメリカみたいに細かく何歳以上推奨、みたいな段階があるのはいいなと思う)

サヨウナラ有識者!(関係者以外立入禁止)

この漫画で描かれていることは極論のように思えるかもだけど、実はこれ実際に現実になりそうになって、多くの作家や漫画家たちが今も必死に戦ってる話なんですよね。もちろんそういった話を元に作ったフィクションですが。

だから、これから先も万が一にもこんなワケのわからない有識者と名乗る政治屋や学者なんかに表現を規制されるようなことが起きないよう、文化を甘受しているみんなで目を光らせ、時には行動に起こしていかないといけない。

もし本当にこんな有識者会議みたいなものが行われるのであれば、そこには作者や編集者といった、作り手側だけが入って自ら議論できるようにしないといけない。

そうやって、人は文化を育てていくんじゃないかなあ。

あと、どんなに大人が規制しようとしたって、ちびっこたちは「う○こ」「ち○こ」なんてシモネタでゲラゲラ笑ってるし、イケメンアイドルたちのちょっとしか絡みに女子中高生たちは絶叫してるし、親に隠れてエロ本読むし、幼稚園児だって彼氏彼女がいっぱいいるし、ロックもヘヴィメタルもキッズたちのバイブスを上げ続けるし、結局大人がいくら禁止したって子供たちはそういうものを見つけ楽しんでるんだから。

そういう意味では長々と書いた僕のこのレビューも無意味なもんですよ(笑)。

この漫画の主人公である漫画家は、最後に未来に向けて『有害都市』という作品を残すけれど、果たして有害なのは表現なのか、それともそれを規制する社会なのか。

全2巻の完結作品なので、是非読んでみて自分の答えを見つけてください。

WRITTEN by 南川 祐一郎
※「マンガ新聞」に掲載されていたレビューを転載
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