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【次の「このマンガがすごい!」大本命】 「欲しいものと持っているものが違う」ゴースト画家の才能と葛藤を描く『アンタイトル・ブルー』

【レビュアー/和久井香菜子

アラサーのころ、むちゃくちゃテニスしてました。

スクールに週6で通い、草トーナメントに出まくりました。試合は自分の欠点を知るためのツールで、その欠点を克服するためのスクールレッスンでした。稼いだお金は全てテニスに費やしました。すっごいストイックです。

だけどぜんぜん楽しくなかった。

目前にあるのは自分の至らなさだけ。勝つのは必然だけど、負けるのには理由がある。その理由を突き詰めて、克服する。欠点だけに目が行って、めちゃくちゃもがいていました。

でもそれで学んだことは絶大でした。

なにかに真摯に取り組むことは、必ず痛みを伴う。

何かの扉を開ければ、自分の立ち位置が明確になり、その先に広がる広い、広い世界が見えてきます。

私にとってテニスは、自分の至らなさを再認識する認定証のようなものでした。

それまでは頂上しか見てなくて、それはとてつもなく遠くて、いつまで登っても、頂上はずっと先でした。年齢だけ重ねてアラサーで、スポーツマンとしてのピークをとうに超した年齢でプロになれるわけでもなく、周囲のスクール生のような専業主婦でもなくて、この先どうしたいのか、この神経と頭脳を仕事に活かした方が稼げるんじゃないか、有り金を全部テニスに突っ込んで、なにやってんだと閉塞感がハンパなかった。

だけど死ぬほど金と時間を使って、スペインにテニス留学までして、振り返ってみれば、どこへ行っても恥ずかしくない程度の技術が身につきました。ふと後ろを見てみたら、裾野が果てしなく広がっていたんです。

でもそれは、個人の上達を諦めたからこそ得られた感覚でした。

今はテニスが楽しいです。うまくなりたい、男性と張り合いたいという気持ちがまったくゼロで、今のレベルでチャラチャラやって、勝ったらラッキーで、負けたら運が悪かったで済ませればいい。勝敗に理由を求めなければ、なんでもギャンブルです。

現実と向きあって切磋琢磨するのは辛いことです。やめてしまえば楽だけど、でも、もう達成感はありません。

『アンタイトル・ブルー』は、そんなテニス時代を思い出して胸が詰まります。この作品、今年の「このマンガがすごい!」にランクインするんじゃないかと踏んでます。

子どもの頃、神童と言われた天才日本画家のあかりは現在、美術予備校で働いています。そこでなんやかんやで知り合った臣(おみ)が、あかりの名前で絵を描き、売り出すようになります。

あれぇ……? このあたりでちょっと、ゴースト作曲家事件を思い出したりもしますね。

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『アンタイトル・ブルー』(夏目靫子/講談社)1巻より引用

あかりは両親が亡くなって弟たちを養わなければならず、自身の画家としての才能も枯渇して、絵で生計を立てることを諦めていました。だけど臣の登場で、情熱が再燃。臣の作品が自分のものとして注目されることに、大きな葛藤が生まれます。画壇を忘れていたときは平穏だった暮らしが、一気に崩れていくんです。

昔の栄光に並ぶくらいの才能が自分にはあるのか。

今、自分が全てを捨てて絵画に向きあうだけの価値や才能があるのか。

真剣に取り組むからこそ生まれてくる葛藤です。

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『アンタイトル・ブルー』(夏目靫子/講談社)1巻より引用

その上、一度ついてしまったウソが、どんどん大きくなっていって後戻りができない。なんだか映画「ファーゴ」みたいです。

ウソも結婚も、始めるのは簡単だけど、やめるのは大変。

この作品のテーマは「欲しいものと持っているものが違う」ということでしょうか。

あかりには、今は世間から認められる評価はないけど、温かい兄弟がいる。
臣には、世間を圧倒する才能があるけど、それを伸ばす環境も、周囲の理解もない。

ほかにも、WANT(欲しいもの)とBELONG(持っているもの)のミスマッチが起きている人たちが何人も出てきます。すでに持っているものが「欲しいもの」じゃなければ、なんの価値がないんですよね。だけど、他の人にとってはそれがものすごく欲しかったりもする。

身体をえぐられるような痛みは、真剣に取り組んだときにしか起こらない。あかりの苦しみは、再び絵画と向きあうことでやってきました。
私のテニスはもはや痛みを伴わないし、喜びもない。私のやってきたことやスキルに価値を感じることはありません。

だけどもしかしたら、誰かにとってはすごく価値のあるものがあるのかもしれない。一度、自分の持ち物を見直してみようかな。

人生の棚卸しをしてみると、意外な発見があるかもしれないですね。

・・・・

※元ソニーの盛田正明氏、茶道裏千家前お家元千宗室氏、ボクシング山根明氏、テニス選手宮城淳氏ほか、総勢18名から、戦争と戦後の復興体験を聞きました。ぜひ読んで欲しい一冊です。