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所沢出身者から見た『翔んで埼玉』のリアリティ

『翔んで埼玉』が実写映画化でたいへんな評判ですね。

30年ほど前の作品の復刊ですが、和久井は埼玉県所沢市出身で、連載当時、所沢でこの作品を読んでました。というわけで、当時を知る埼玉県民所沢市民として、当時の状況を振り返ってみたいと思います。

『翔んで埼玉』の初出は82年。この頃は「ダ埼玉」なんていう言葉が生まれた頃で、タモリさんが「笑っていいとも!」で「ダ埼玉」を連発していました。83年には千葉に東京ディズニーランドができて、「千葉と差をつけられた!」なんてハンカチ噛んでた頃です。先祖代々所沢出身の母なぞは「千葉と張り合ってたのに抜かれた」などと言っておりました。そう、この頃って全国的に埼玉がバカにされてた時代だったんです。

所沢駅前の西武はまだ出来ていませんでしたが、79年に突如やって来た西武ライオンズは82年には日本一へ。「王者西武」への第一歩を踏み出したところでした。子どもの頃は「西武は優勝するもの」と思っていたので、秋になると「服が欲しいけど、そろそろリーグ優勝だからセールまで待つか」なんて思ってました。リーグで優勝すれば日本シリーズ。これは勝っても負けても「優勝セール」が「優勝残念セール」になるだけなので、毎年秋の所沢はお祭り騒ぎです。

当時の所沢はサテライト子育て都市として発展中でした。私などは小学校7クラス、途中で新しい小学校が出来て分裂、中学校は13クラスでしたがまたも新しい中学校が出来て分裂、小学校も中学校も校舎が追いつかずにプレハブ校舎に入りました。子どもがうじゃうじゃいた時代だったんですね。

「ダ埼玉」には思い当たる節があるのかカッカしてましたが、流行に時差があるのは間違いなかったような。85年くらいから制服はミニスカート丈が流行るようになったのですが(それまで日本は制服といえばスケバン風が主流だったんですな)、所沢ではまだくるぶし丈も居残っていて、校則のゆるい県立高校の生徒なんかはひざ上丈の子もいればくるぶしのズルズルスカートの子もいて、各自アレンジの差がすごかった。なんのための“制”服なんやら、という感じでした。でもまあすぐに長い丈は淘汰されてミニスカートに統一されましたけど。

一方で、同じようにディスってるのに『翔んで埼玉』には嫌悪感を抱いた記憶がありません。あそこまでやられると、怒る気も起きないというか、「取り上げてくれてありがとう!」くらいな気持ち。楽しめたようです。漫画に描いてあることはたいていフィクションですが(サイタマラリアとかないし)、「ジャンパー」を「ジャンバー」だと思っているのはほんとうです。ただ、周りにこの作品を知っている人はいなかったので、あんまり話題に上らなかったです。

車で所沢へ入るには、1.関越自動車道から浦トコ街道、2.川越街道から浦トコ街道、3.青梅街道から府中街道のだいたい3ルートがあります。府中街道は青梅を越したあたりではすでに2車線なので、漫画に出てくる「街道とは名ばかりの山道」とは府中街道のことでしょうか。ただし、所沢の場所をちゃんと把握してる人ってあまりいなくて「飯能の先」と言われることがしばしばあります。西武線的には飯能よりもずっと手前ですブツブツ。

というわけで、ダサいダサいとこき下ろされていた埼玉を逆手にとってギャグにしちゃったのが『翔んで埼玉』。「さすがに肥だめの匂いはしないだろ」と思っているので、笑って済ませられますね。微妙に間違っているとか、ガチホントのことを書かれるとイラッとすると思いますが。

ちなみに実家は、白泉社の社長だった小長井さんちの隣でした。

それではみなさん、まんずまんずごきげんやっしゃ!

WRITTEN by 和久井 香菜子
※「マンガ新聞」に掲載されていたレビューを転載
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