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僕の彼女は障害者#10

高校から専門学生時代

高校生の頃はビジネス系の高校へ通っており、部活はテニス部。
まぁ普通の高校生活を送っていたそう。
しかし、本人が違和感を感じ始めたのはこの頃だったそうだ。
勉強が周りについていけない。
テストがあればほとんど補習になる。
学年でもう一人いたけど、その人は不登校の人。
学習面ではそんな遅れ感があったそう。
ただ、留年することもなく卒業することはできた。

アルバイトはファミリーレストランや旅館で働いていて、特に問題があった話は聞いていないので普通にこなしていたんだろうと思う。

専門学生時代は電車で1時間ほどの学校を自分で選び、保育士の道を目指して通っていた。
この頃に1回目の大きなつまづきを経験する。

父との関係悪化

父親との関係はこの頃から最悪な状況になり、今日まで会話もしていない。もう10年近くになる。
父親の沸点の低さは相変わらずで度々怒ることもあった様だが、彼女も20歳近いので一人で十分に行動することができるので、アルバイトや友人との行動などで自宅にいる時間は少なかった。

しかし、ある日アルバイトから帰った夜。
父から
「こんな時間までどこで遊んでいたんだ!」
「遊ぶために学校に行かせたんじゃないんだぞ!!」
ガン!!!!!!
テーブルにあった教科書の角で頭を殴った。
教科書を破ってゴミ箱に捨てた。

彼女は部屋に閉じこもってそれ以来父とは会話をしなくなった。

電車に乗れない・・・・広場恐怖症

この頃、電車に乗れなくなった。
駅の改札まで行くが涙が出てきて改札を通過できない。
電車になんとか乗るが、苦しくなってきて途中で降りてしまう。
学校にはたどり着くが、苦しくて途中で無断で帰ってしまう。

この前彼女はこの症状を「広場恐怖症」と言う言葉を使っていた。

学校の状況が悪く、母親が学校に呼び出されることが度々あった。
その度に言われた言葉は
「もっと真面目にやりなさい」
「やる気がないのか」
「周りの人たちはみんなちゃんとやっている」
「先生だって遠くから電車で通っているんだぞ」
今だったらもう少し視点が違うかもしれないが、障害がある人にとっては「努力不足」ではないのでとても苦しい言葉だ。

精神科へ通院

同じ様な状況が続き、学校から帰れないなんてこともあった。
母親が電車で迎えにきて、そのまま自宅近くの総合病院の精神科へ通院した。
診断は覚えていなかったが、抗精神薬を処方されて服薬を始めた。
しかし、副作用が強く1回しか飲まなかった。
その後は通院も自分の判断でやめた。
なんとか自力で学校へ行き続けそうつ行することもできた。
ここで障害にフォーカスすることができていたらなぁと思うことも・・・・
まぁ仕方がない。


なんとか専門学校を卒業はしたが、3年生の学校なので保育士の筆記試験がなかったので、と本人は話していた。
父との関係は最悪な状況で改善も見込めない。
間の母親も苦しかっただろう。
ただ、専門学校を卒業して就職までできたことで母親は安心しただろう。

昨日は夜に彼女の不安定があり、睡眠の質が悪くてぽやーっとしながらの毎日note
#よく頑張ってる
#自分を褒めよう


継続10日目
ご覧いただきありがとうございました。

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