ヨーロッパの始まり〜アテネ民主政まで〜
エーゲ文明
古代ギリシアでは、前半のクレタ文明と後半のミケーネ文明で特徴が
分かれており、後のヨーロッパ文化の源流となるまで高度な発達を
したと言われています。
クレタ文明の特徴
明るい海洋文明と言われおり、宮殿にはこれといった城壁もなく、
警戒心のない平和的な文明だったそうです。
中心地のクノッソスには今も宮殿跡があり、その遺跡の巨大さから
ギリシア神話に登場するミノタウルスの住む迷宮とも言われています。
この文明は前述の通り、警戒心の無さから外敵の侵入を許し、なす術なく
滅びたそうです。
ミケーネ文明の特徴
こちらは前期のクレタ文明とは反対に交戦的な文明と言われており、
日々激しい抗争が繰り広げられていたとされています。
今も残る遺跡の多くには、巨石を積み上げた城壁が存在しているそうです。
暗黒時代
ミケーネ文明崩壊後の約400年間は暗黒時代と言われており、
未だに解明されていない空白の歴史となっています。
この暗黒時代の終わり頃に各地でポリスと呼ばれる都市国家が生まれます。
このポリスの形成者が古代ギリシア人と言われています。
古代ギリシア人
彼らは、共通のギリシア神話の神々を信仰し、オリンピアでのスポーツの
祭典(オリンピック)を一緒に行うといった一体感を持ち合わせる反面、
使っている言語によってイオニア人、ドーリア人などのグループに分かれて
いたため、お互いにライバル心を持ち、戦争もよくしていました。
また、ギリシアは土地的に平野が少ないので、人口が増加すると住むための
土地が不足するといった問題を抱えていました。
そこで地中海の海上交易を活発に行い、各地に植民市を建設しました。
それら植民しからギリシア文化が現在のイタリア、フランスへ伝播したと
されています。
※イタリアのナポリはネアポリス、フランスのマルセイユはマッサリアという
植民市を起源としています。
アテネによる民主政完成までの流れ
1.ドラコンの成文法
↓
2.ソロンの財産政治
↓
3.ペイシストラトスの僭主政治
↓
4.クレイステネスの陶片追放
↓
5.ペリクレスによる民主政の完成
古代ギリシアのイオニア人によるポリスであるアテネでは、
民主主義の原点が生まれていました。
アテネでは、市民全体(成人男性のみ)で意思決定を行う直接民主政という
体制がとられるようになりました。
貴族による長年の政治独占が続いていた中、アテネの商工業発展により
一般市民の経済力が高まり、自ら武器を購入して戦争に参加するという市民
が登場したことが変化のきっかけとなります。
「国のために自分達も命をかけて戦っているのに貴族だけが
政治を牛耳っているのは許せない!ボコる!」
といった意見を持つ市民が増えたことで自分達の参政権を求め、
貴族に対して身分闘争を挑むようになりました。
1.ドラコンによる成文法の制定
貴族と民衆の間での抗争が激しくなってきた時期に、立法家がドラコン
という人物に委託し、それまでの慣習法を成文化(誰でも読めるようにする)
しました。
これにより貴族による法の勝手な解釈によって、平民が不利益を被るという
ことがなくなり、アテネを貴族政から民主政へと移行させる重要な出来事
となります。
2.ソロンによる財産政治開始
次に、ソロンが納税額に応じて市民を4つに分類して段階的に
参政権を与えるという内容の財産政治を始めました。
これにより、参政権を得るには金持ちになればいい!という
身分以外で参政権を得る仕組みの元、今までより参政権自体は
拡大することになりました。
ちなみに4つの階級に分類すること自体は財産政治以前にも
行われていたのですが、ソロンの着想の新しさとして4つの階級を
従来の軍事的な結びつきから国政に参政する権利を与えた点にあります。
補足として以下に4つの階級に関する詳細を記してます。
第1の階級「五百石級」
アルコン(統治者)と財務官になれます。
第2の階級「騎士級」
第3の階級「農民級」
第2、第3の階級はいずれもその他の役職に就くことができます。
その代わりに第1から第3等級の市民は重装歩兵として従軍する
義務を負わせました。
第4の等級「労働級」(無産者級)
何の役職につくこともできませんでしたが、民会に出席して出席役人選挙に
関与することができました。
3.ペイシストラトスの僭主政治
ペイシストラトスは自分の体を傷つけてアゴラ(広場)に現れ、自らが民衆の
味方であるために政敵に襲われたと訴え、民会で自分を守るために50人の
「棍棒持ち」と呼ばれる輩を親衛隊とすることを認められ、それを使って
アクロポリスを占領して強引に僭主となりました。
その後二度にわたってアテネを追放されましたが、その都度謀略を用いて
3度目に僭主政治を開始するに至りました。
僭主政治の内容
独裁政治ではありましたが、合法的で貧農救済や土木工事を行なったり、
宗教や文学を保護したり、死ぬまで安定した政権を維持しました。
意外にも暴政とならなかった要因として彼の性格が民主的かつ博愛で
自己の利益を計ることがなかったからだとアリストテレスに
評価されていたそうです。
4.クレイステネスの陶片追放
ペイシストラトスの死後、抑圧的な独裁を行う僭主が続いたため、
クレイステネスは、陶片追放という制度を始めました。
陶器のかけらに僭主となりそうな人を書き、得票数の多い者をアテネから
10年間追放するという内容でした。
また血縁ごとの部族制を廃止して住んでいる土地ごとに民衆を
グループ分けしました。
この改革により、貴族の血縁というメリットが機能しなくなり、
民主政の基礎ができあがりました。
5.ペリクレスによる民主政の完成
将軍ペリクレスが登場すると、ついにアテネの民主政は完成します。
青年男子市民が民会を開き、多数決で国家の政策を
決定するようになりました。
また、民衆裁判所の陪審員に給料を出すこととし、さらに給料制を
アルコンや評議員にも拡大し、役人の抽選制を徹底しました。
完成とはいうものの、現代と比べるとお粗末なもので、奴隷、異民族、
女性にはいまだ参政権はありませんでした。
しかし、市民全員が政治に参加する直接民主政であったことが
ギリシアの民主政の最大の特徴となりました。
アルコンではなくストラテーゴスとして民主政に着手
ペリクレスはアルコン(統治者)ではありませんでした。
アルコンという職は任期が1年で再任は認められないため、
民主的である反面、継続的に政策を実行するには仕組みとしては
適していませんでした。
それに対して、ストラテーゴス (将軍職)は再任可能な専門職であったため、
ペリクレスは15年間ストラテーゴスとして再任し続けました。
ペリクレスは頭が長かった
彼は頭が長く、海葱頭(海葱は地中海原産の草で、
玉葱を縦長にしたような大きな球根が特徴)とアテネ人から
愛称されていました。
彼のその身体的特徴を喜劇詩人のテレクリデスは「自分の頭の重さで
気絶する」ほどだといじっていました。
本人も頭の長さを気にしていたようで、彼の胸像が大抵兜をかぶって
上を向いているのはそれが原因だそうです。
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